子どものころの遊具|Kawauchi Masami

20061

 

 今では、危ないと、無くなってしまった遊具、回旋塔が、鹿島小学校のグランドと中庭に、2台有りました。

 持ち手は三角でしたね。

回旋塔
シーソー

 確か シーソーと言いませんでしたっけ 裏庭に5〜6台 緑の 鉄製のが有りました。

 シーソーは2人で、ぶら下がり漕ぎますが、止めるタイミングが難しく、まず転んでましたね。

 確かに、危ない遊具でしたね

 

シーソー
遊動木

 これも 「ギッタン、バッコン」って、言ってましたね。

 グランドの端っこの所に有りました。

  

 あと、『登り棒』というのもありました。  

 グランドの左側、教会の下あたりに、竹竿が5〜6本立ててあって、私達は、上まで登って行って、上に、エッタ して、降りて来ました。

 緑色の鉄の台でした。

 いずれにしろ、今は危ないと、見る事の出来ない遊具ですね。

 私は、てっぺんまで行けました。得意でした。

 

  

 

中庭の回旋塔のイメージ

 中庭に有った回旋塔は、グラウンドのより大きく3倍くらいありました。

 まず、ぶらさがって、逆上がりで下の鉄棒に座ります。 そして、2番目の鉄棒に捕まって、乗ります。

 座る所が、空かないぐらい、びっしり乗っていました。 乗れない人は、下にぶら下がって回旋塔を回す役でした。

 私の記憶では、30人ぐらいぶらさがって、上には20人くらい 座っていた様に思います。それでも乗れない子供が沢山いて、 乗れる子はヤンチャな子が多く、6年生は横に揺らしながら回していましたよ。 まぁ〜、まともな乗り方しないのが、子供でしたから。かなり、危なかったです。

 

 何故 覚えているかと 言うと、小学校3年生の時、上に乗っていて 鉄の間に 手の皮を 挟み、 怪我をしました。

 が、上に乗るのは禁止されていたのか、怪我したのを先生に言えず、血が少ししか出ていなかったので、痛いのを、我慢したのを、強烈に覚えています。

  

 子供の数が多く、昼休みは、競争で遊具を取り合いました。大概の人は、ドッチボールで仲間で遊んでいました。

 

 定かでは有りませんが、私が高学年の頃、回旋塔とシーソー、無かった様に 思います。

(2021年6月4日 記)


 (筆者紹介)

昭和29年6月生まれ三男として 南清水沢で生まれ、2歳の時、緑町に、のち春日町で18歳まで大夕張で暮らす。昭和48年、一時大阪へ転出するが、昭和50年帰郷、南大夕張鉱業所ヘ就職し、平成2年3月の閉山まで勤務。


思い出の記

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