イタヤカエデの木の下で|夕輝文敏

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(目次)

  1.  夢
  2.  出会い
  3.  再会
  4.  暑い日
  5.  交流会
  6.  メール
  7.  お別れ会
  8.  病
  9.  一枚の絵
  10.  小さな命
  11.  イタヤカエデの木の下で

 

 ヒロは、校庭の端にあるブランコに乗っていた。

 校庭の遥か彼方には、夕張岳がくっきりと映えていた。隣のブランコには、一七歳で病死した三浦由希が乗っていた。

 二人の前を心地よい初夏の風が吹き抜けていく。

 ヒロは、由希に会えるのが嬉しかった。由希はお気に入りの刺繍のついた白のブラウスとチェックのタイトスカートをはいていた。

 夢に出てくる由希はいつもこの服装であった。そして、決まってヒロに聞くのであった。

 

「ねえ、このブラウスとスカート私に似合うかしら」

「うん、とても良く似合うよ」

とヒロは言う。すると、由希は嬉しそうな顔をして

 

「退院したら、この服着て、ヒロと札幌へ行って、映画見てくるの」

と言うのであった。

 これが、由希と交わした最期の会話であった。

 ブランコに乗りながら、由希は何か口ずさんでいた。

 聞いているうちに、それが鹿島小学校の校歌だとヒロにもわかってきた。

 

「ヒロ、閉校式に来なかったの。私ずっと玄関で待っていたのに・・・」

 由希は揺れるブランコから大きな校舎を見ながら言った。

 

「由希、ごめんな。どうしても仕事の都合がつかず来れなかったんだ・・・」

ヒロは少し後ろめたい気持ちで言った。

 

「そうね、仕事があったんじゃ仕方がないわね」

 由希はぽつりと言った。

 その後、ヒロと由希は楽しそうにブランコに乗っていた。

 右手には、樹齢百年を越えるイタヤカエデの木が風にそよいでいた。

 そしてバックネットの向こうの小山には、大夕張神社が建っていた。それらの中心で鹿島小学校の校舎は、初夏の陽射しの中で輝いていた。

 

 

 

 その日、ヒロは、一日中忙しく営業をこなし、最後の納品を終えたときは、一〇時を過ぎていた。

 今の会社に来てから五年が過ぎたが、持ち前の頑張りで営業所を任されるまでになっていた。

 大手事務機の系列の下請けで従業員一〇人ほどの小さな会社ではあったが、ヒロにとっては、はじめて自分の裁量で仕事ができる職場であった。

 

 仕事帰り、ヒロはコンビニでビールと弁当を買い、マンションへと帰った。

 いつものように暗い部屋に帰ると照明をつけ留守電を確認した。今日はメッセージが入っていなかった。妻と別れ一人娘の有紀を手放してから五年が過ぎていた。

 

 シャワーを浴びた後、ヒロはビールを飲みながら、パソコンを立ち上げていた。まだ買ったばかりのパソコンであったが、プロバイダーとの契約も済み、昨日からインターネットに接続できる環境になっていた。

 

 二本目のビールを飲みながら、ぼんやりとプロバイダーのホームページを見ていると、由希の顔が浮かんできた。

 小学校の頃から同じ炭住で育ち、気がつくといつも側にいた。

 中学校に通い出した頃は気恥ずかしさもあり、由希を避けたこともあった。だが、同じ高校に入りクラスが一緒になると、また幼馴染に戻り、一緒にいることが多くなってきた。

 

 高二の夏休みに由希が入院すると、ヒロは、はじめて由紀のいない日常に淋しさを感じていた。

 ヒロにとって、いつしか由希が初恋の人になっていた。ヒロは、サッカーの部活の帰りに、由希の病院に立ち寄るのが日課になっていた。

 

 そんなことを思い出しているうちに、検索エンジンに「大夕張」と打ち込んでいた。

 ヒロにとって「大夕張」は、故郷であるとともに、由希につながるものであった。

 検索結果二件の表示があった。一つは夕張市のものであり、もう一件は「ふるさと大夕張」とあった。

 

 ヒロは「ふるさと大夕張」にアクセスすると引き込まれるようにホームページを見ていた。子供の頃から見慣れている懐かしい街の写真が沢山収められていた。

 そして、ヒロが出席できなかった「鹿島小学校」の閉校式の模様も載っていた。閉校式には予想を上回るほどの沢山の卒業生たちが集まっていた。ヒロは、食い入るようにそれらの画像を見ていた。

 

 

 

出会い

 正男は夕食が終わり子供たちが寝る時間になると、居間のソファーを立ち上がった。

 

「ちょっと、パソコンやるから」

と妻の良子に言った。

 良子は、にやっとすると

「今晩も、愛しの君と徹夜ですか」

と答えた。

 正男が「ふるさと大夕張」のホームページを始めてから、半年あまりが経った。

 始めの数ヶ月は、アクセスする件数も少なかったが、閉山前の活気のあった頃の大夕張の写真を掲載した頃から、アクセスが増えはじめ、まもなく五千件に達しようとしていた。

 それに伴い、メールも多く寄せられるようになっていた。このホームページを通じて今でもふるさとにつながっているようで、正男にとっては、家族とともにかけがえのないものになっていた。

 

 正男はホームページを開くと、掲示板の書き込みを見ることにしている。

 ここ数日書き込みはなかったが、今夜は一件寄せられていた。

  


 このHPを見つけたのは、先週でした。まさかと思いながら「大夕張」の三文字を検索エンジンに打ち込んでみました。

 ホームページを発見したときは驚きました。

 今日は少し落ち込んでいましたが、懐かしい大夕張の写真を見ているうちに、元気になってきました。

 これからも、時々書き込ませていただきますので、よろしくお願い致します。


 

「このホームページが同郷の人に喜ばれている」

 正男は、読み終わると嬉しくなってきた。そして、投稿者のアドレスにメールを送った。

 

『杉田さん、掲示板への書き込みありがとうございます。新しい仲間が増えるのは、嬉しいものです。どうぞこちらこそよろしくお願いします』

 

 その後、正男は新たに入手した写真をアップさせる作業に取りかかった。

 一時間ほどして作業が完了した頃、一通のメールが届いた。記録を見ると先程メールを送った杉田宏行からであった。

 

『飯島さん、いつも懐かしいHPをありがとうございます。そして拙い投稿にも応えていただきありがとうございます。できれば、一度お会いして、大夕張に対する飯島さんの熱い思いなどを聞かせていただければと思うのですが、いかがでしょうか』

 

 今まで寄せられたメールは、どれも励まし、感謝の内容であった。

 こうして「会いたい」という呼びかけは、初めてであった。正男はすぐに返信のメールをヒロに出した。

 

『是非、お会いしたいです』

 

 その週の金曜日に、二人は会うことになった。

 札幌駅北口のファーストフードの店の前で待ち合わせた。先にヒロが来て、飯島は二〇分ほど遅れて駆けつけた。二人はそのとき不思議な体験をした。初対面なのに懐かしさがこみ上げてくるのであった。

 今までこんなことは一度もなかった。あの夕張の山奥の炭鉱街で生まれ育ったというだけで、初めて会ったというのに、懐かしいのだった。

 
 会話は、はじめから打ち解けたものだった。

 

「どうも、初対面なのに、どこかでお会いしたような気がしますね」

 ヒロがそう言うと

 

「そうなんですよね。初対面の気がしませんね」

と飯島も言った。

 そして続けて

「僕がホームページを作ってから、こうして直に大夕張の人と会うのは、杉田さんが初めてなんですよ。会うまではどんな人かと思って、少し緊張していたんですが。こうして会ってしまえば、本当、こう、懐かしいですね」

と言った。

 
 飯島は、ヒロより三才年下の三五才であった。

 話してみると、鹿島小学校では三年間重なっていて、校舎のどこかですれ違っていたに違いなかった。ヒロは色んな話をした後、飯島に尋ねてみた。

 

「どんなきっかけで、大夕張のホームページを作ってみたんですか。僕は、ここまで大夕張に思いを寄せる人がいたんだと驚きましたよ」

 

「僕は、大夕張で一八まで暮らすことができなかったんです。小学校の卒業式を待たずに、街を出て行ったんですよ。だから、中学、高校と過ごした人たちのように、同期会とかの接点もないんですよ。僕にとっては、鹿島小学校だけが、唯一の拠り所だったんです。閉山で衰退していた大夕張が、ダムに沈むという話は知っていたんですが、鹿島小学校が閉校になると聞いて、自分なりに何かしなくてはと思い、それがこのホームページだったんです。そんなことで、いたって個人的に始めたのですが、これほどアクセスしてもらえるなんて思っていなかったものだから、自分でも驚いているのです」

 

 飯島は、少し遠慮しがちにそう答えた。ヒロは飯島の話を聞いて、あれほどのホームページをつくりながら、気負いのない男だと思った。また、飯島は、大夕張を去ることになったいきさつを次のように話した。

 

 飯島の父親は、坑内で採炭夫をしていたが、立て続けに2度大きな事故に巻き込まれた。

 どれも幸いに、小さな怪我ですんだが、母親が「三度目は必ず命取りになる」と言って、父親に炭鉱を辞めることを迫った。

 そして、一家は大夕張を去って札幌へと移り住んだ。

 

「でも、運命って皮肉なものですね。炭鉱の大きな事故で命を落とすこともなかった親父が、札幌へ住んで半年後、交通事故で亡くなりました。自転車に乗っていたら、後ろから車に轢かれてしまって。もし、あのまま大夕張にいたら、交通事故だけにはならなかったろうにって思ったりして・・・」

 

 ヒロは、飯島の話を聞きながら、二人は、どこか似ていると感じていた。それは、大夕張に対する「こだわり」だった。飯島は全てを受け入れて、大夕張の記憶を辿ろうとしている。

 ヒロは、まだ大夕張の受け入れ方がわからずに、由希の俤を引きずり立ち止まっている。全く異なる方向性で大夕張にこだわっているところが、二人は似ていた。

 

 その夜、ヒロと飯島は遅くまで親交を深めた。夕張を出て以来、同郷の人間とこんなに「大夕張」を語ったことはなかった。二人は、初めての出会いで、結び付けを深めていた。

 

 

 

再 会

 ヒロが飯島と会ってから一週間ほどすると、掲示板に鹿島中学校二六期会の同期会が夕張で開催されたことが書き込まれていた。

 大夕張神社にみんなで寄せ書きをした黄色い旗を、結び付けてきたことも書かれていた。そして、最後に幹事の名前が連名で書いてあった。

 その中に、一人ヒロにとって聞き覚えのある名前があった。「三好明夫」どこか記憶の彼方で引っ掛かりを持つ名前であった。

 だが、その日は、それ以上思い出すこともなかった。

 

 ヒロの会社が入っている雑居ビルの8階の窓からは、手稲山が見える。

 ヒロは、夕方疲れを癒すため、手稲山を眺めていた。

 すると事務員の山口美幸が

 

「代理は、手稲山が好きなんですね」

と言ってきた。

 

「夕張の山の中で育ったものだから、山を見ていると落ち着くんだよ」

とヒロは応えた。

 

「私は札幌育ちだけど、高校一年生のとき体験学習で、一度だけ夕張岳に登ったことがあるんですよ。とても綺麗な花が咲いていたのを覚えているわ」

と美幸が懐かしそうに言った。

 

「そう、夕張岳に登ったことがあるんだ。僕も一度だけ登ったことがあったなあ」

 

 美幸と夕張岳の話をしていると、ふと「三好明夫」の名がもう一度引っかかってきた。おぼろげながら「輪郭」が浮かんできた。そして、顔がはっきりと思い出されてきた。

 

 

 ヒロが住んでいた炭鉱住宅の二つ向こうの棟に「三好明夫」は住んでいた。

 ヒロより四才年下で、ヒロが中学生になるまで良く一緒に遊んでいた。

 

 ある冬の日のこと、炭住街の子供たちで雪合戦をして遊んでいた。明夫はとても明るい男の子で、男兄弟のいないヒロにとっては弟のようでもあった。

 みんなでかまくらを作った後、二つの組に分かれて雪合戦を始めた。合戦中に、春先になって気温が上がったこともあり、屋根に積もった雪が一斉に滑り落ちてきた。

 

 その雪山の下に明夫は生き埋めになってしまった。ヒロは、すぐに大人を呼んで来るように、下級生に言うと同時に、雪山を掘り起こした。ちょうど、大人たちが駆けつけたとき、明夫は掘り出された。

 

「今ごろは、屋根の下で遊んだらあぶねえって、いつも言われてるべえ。この馬鹿たれどもが」

 

 近所のおじさんたちは、ヒロたち六年生を叱りつけながら、明夫を抱きかかえていた。

 明夫は、初め意識を失っていたが、大人たちに頬を叩かれたりしているうちに、目を開けると大きな声で泣き出した。

 

 その日の夕方、ヒロは一番方で坑内から上がってきた父親の後ろについて、明夫の家の玄関に立っていた。

 父親は持ってきた一升瓶を明夫のお父さんに差し出すと

 

「三好さん、今日は本当に済まなかったなあ。この馬鹿息子のために、明夫ちゃんとんでもないことになるとこで」

 

 ヒロの父はそう言うと深々と頭を下げた。そして「おまえも、ちゃんと、謝れ」と言いながらヒロの頭に拳骨を加えた。

 

「屋根の下は危ねえって、いつも言われていたべえ。それを小さい子供まで連れて。明夫ちゃんに何かあったら、おまえの頭割ったぐらいですまないべえや」

 

 ヒロの父がそう言うと、又ヒロの頭に拳骨が下りた。ついにヒロは泣き出した。そのとき

 

「おじさん、ヒロ兄ちゃん叩くのもう止めて。いつも俺のこと一緒に遊んでくれるんだから」

と言って明夫も一緒に泣き出した。

 

 その後、ヒロが中学に上がると、もう小学生の明夫たちとは、一緒に遊ぶことはなくなっていた。そして明夫が中学生になった頃、炭鉱で大きな事故があった。明夫のお父さんも、その事故に巻き込まれ大怪我をしてしまった。その怪我がもとで、もう坑内で働くことが出来ず、一家は明夫の父の出身地である岩手県へと引っ越して行った。それ以来、ヒロも明夫のことを思い出すこともなく月日は流れていった。

 

 その夜、ヒロはマンションへ帰ると、ホームページの掲示板へ「三好明夫」君は、昔近所にいて一緒に遊んだ「明夫」君ではないかと投稿した。それから、二日ほどすると、明夫から直接ヒロのアドレスにメールが届いた。

 

『掲示板を読んで感激しました。私のことを覚えていてくれたのですね。いつもホームページページを見ながら、掲示板に投稿している杉山さんて、子供のころ一緒に遊んでくれたヒロ兄さんではと思っていました。ただ確信がないものですから、こちらから連絡を取ることもありませんでしたが。本当に、嬉しいです。私も今は千歳に住んでいますので、ぜひ、お会いしたいと思います』

 

 やはり、子供の頃一緒に遊んでいた明夫であった。ヒロも「すぐにでも、お会いしたいです」とメールを出した。

 

 二人はススキノの居酒屋で待ち合わせた。

 約束の時間より早くヒロは店に入り、先にビールを飲んでいた。小学生の明夫の顔が、今もはっきりと思い出すことができる。明夫も父親の坑内事故さえなければ、大夕張を去らずにすんだものをと思っていた。

 

 しばらくすると店員の「いらっしゃいませ」という声に釣られ、入り口を見ると、スーツ姿の男性が店に入ってきた。良く目元を見ると、明夫であった。ヒロが気づくと同時に明夫も「にこっと」微笑みかけた。そして、ヒロのところまで歩んでくると「どうも、お久し振りです」と言った。

 

「いや、どうも。目元がお父さんにそっくりだから、すぐにわかったよ」

とヒロも言った。

 二人は、椅子に腰掛けると、ビールで乾杯した。

 

「こうして、明夫君と再会して、一緒にビール飲んでいるなんて、何か夢みたいだなあ」

 ヒロは感慨深げに言った。

 

「僕もヒロさんに会えて嬉しいですよ。いつもホームページ見ながら、あの子供の頃遊んでくれたヒロ兄さんかと思っていたんだけど・・・」

と明夫も上ずった声で言った。

 

「僕も掲示板で、三好明夫という名前を見た時、何故かこう引っかかるものがあってね。そして、あの時一緒に遊んで、雪山に埋もれた明夫君ではと思ってね・・・」

 

「ああ、あのこと今でも良く覚えていますよ。今から思えば、一緒に遊んでもらいながら、こっちこそヒロさんに迷惑かけてしまって」

 

明夫は、照れ笑いを浮かべながら言った。

 

「いや、そんなことはないよ。僕は姉しかいなかったから、本当は弟が欲しくって。だから、明夫君と気が合ったのかもしれないなあ。 明夫君はいつ北海道に帰ってきたの」

 

「親父には、岩手が帰るべき故郷であったように、僕にとっては、北海道が帰る場所だったんですよ。中学の時に大夕張を離れたときは、いつも帰りたくて仕方がなかったなあ。だから、仕事が見つかると五年前に北海道へ帰ってきたんです」

 

 その日から、二人は頻繁にメール交換をするようになり、互いに良き友人となっていった。

 

 

 

暑い日

 八月のある日、ヒロは大夕張へと車を走らせていた。

 ホームページのチャット仲間で鹿島小学校へ集まることになったからだ。

 

 ここ二年ほど大夕張には帰っていなかった。

 大夕張を出てから二〇年も経つのに、未だにあの街に行くときは、「帰る」という言葉が自然に出てくる。

 帰る機会は、何度かあったが、帰る度に朽ち果てて行く街を見るのが、正直なところ重たくなってきていた。帰りたいのに、帰れない。そんな繰返しであった。

 

 昨夜、チャットで飯島の

「明日都合の良い方は、午前一〇時に鹿島小学校に集まりましょう」

と呼びかけがあったとき、「皆で、一緒に帰れる」と思い、ヒロは迷わずに決めた。

 

 清水沢を過ぎた辺りから、懐かしい風景が広がってきた。

 南部にさしかかった頃には、ヒロの内には、一七才の自分が蘇ってきた。岳富町から鹿島小学校の校舎が見えてくると、ヒロは鼻の奥につんとくる痛みを感じ、涙腺から独りでに涙が出てきた。

 

 この街には、由希が住んでいる。

 

 ヒロは二五のときに結婚したのも、別れた妻が由希に似ていたからだった。

 しかし、幾ら似ていても心を繋げることはできなかった。むしろ、由希を追い求めている気持ちの大きい分、妻の心はヒロから離れていった。

 結婚した翌年、娘が生まれた。偶然にも、由希が生まれた日と、同じ誕生日であった。娘には、有紀という名前をつけた。

 

 由希が街の炭鉱病院に入院する前

「私、元気になって、退院できるかしら」

とヒロに言った。

 

「何言ってるんだよ、元気になるに決まっているんじゃないか。上手くいけば、修学旅行だって、一緒に行けるさ」

 

「私が元気になれば、ヒロ嬉しい」

 

「当たり前だよ、嬉しいに決まっているじゃないか。おじさんだって、おばさんだって喜ぶに決まっているさ」

 

 ヒロは力を込めて言った。

 すると由希は少しうつむき加減で

 

「じゃ、私頑張るから、大人になったら、ヒロのお嫁さんにしてくれるって約束して」

と突然言った。

 ヒロは、驚きながらも由希の目をじっと見て

「わかった。その代わり由希も約束しろ、必ず元気になって俺の嫁さんになるって」

と言った。

 

「うん」

 

 由希はそう言うと、ヒロの前に小指を差し出した。そして、ヒロの小指に絡ませてきた。小学校のイタヤカエデの木の下で、二人は今というときを確かめるかのように、いつまでも指切りをしていた。

 

  

 ヒロが、鹿島小学校に着くと、先に来ていた明夫が車から降りてきた。

 

「明夫君早いね」

とヒロが言うと

 

「千歳からだと、以外と近いんですよ。今日は同級生も一人連れてきたので」

と明夫は言い、隣には、女性が立っていた。

 

「はじめまして、明夫の同級生の田口君江といいます。まだ、パソコン初心者ですが、大夕張のホームページはちょくちょく覗いています」

 

 君江ははにかむように言った。

 

「ヒロさん、君江は中学校で同じクラスだったんですよ。26期会の集りでは、一緒に幹事をやってもらって」

 

「どうも、杉田広行です。明夫君とは近所で、子供の頃は良く一緒に遊んでいたんですよ。飯島さんのホームページのお陰で、再会することができて・・・」

 

三人の話が弾んできた頃、飯島の車が校門の坂を登り、近づいてきた。

 

「遅れてしまい、すいません」

 

飯島は車を降りるなりそう言った。

 

「いや、僕たちもちょっと前に来たばかりだから」

とヒロが言った。

 

「それじゃ、鹿島小学校から行ってみますか」

 

明夫がそう言うと、四人は、大きなガラスの扉を開けた。

 

「ひどい・・・」

 

 君江が声をあげた。広い玄関のホールには、ガラスの破片が散らばっていた。まだ、閉校になって二年も経っていないのに、廊下、教室の窓ガラスが悪戯されほとんどが割られていた。

 

「俺達の学校をこんなにするなんて」

 

 明夫も声を荒げた。廊下を歩くと、備品類も散乱していた。教室の中も荒らされていた。四人は、憤りと悲しみをこらえながら、それらの光景を見ていた。

 展示室に入って行くと、掲示板には色褪せた写真が張られたままになっていた。飯島は、写真をじっと見ながら

 

「小学一年のときの担任だった三好先生がいる」

と言って指をさした。

 

「あっ、六年生のときの担任だった堀田先生だ」

 明夫も大きな声で言った。

 

 そこには、若さに満ちていた恩師達が写っていた。

 石炭を掘り出すために、沢山の男達が津軽海峡を渡り、大夕張にやってきた。

 当初の鹿島小学校は校舎も小さく、膨れ上がる児童を受け入れることができず、午前、午後と二部制の授業をやっていたことがあった。

 今の鹿島小学校の校舎は、最盛期の児童数に対処するために立てられたものであった。

 夕張本町の学校に負けないほどの、鹿島小学校の大きな校舎は、この街で暮らす人々の誇りであった。

 その校舎が、今は荒れた姿になっていた。

 

 飯島は、黒板の前に立ちチョークを持ち

 

「鹿島小学校は、まだ生きています。どうかもう傷つけないでください」

と書いた。

 ヒロも

 

「ここは、俺達の大切な場所だ。壊すな」

と書いた。

 君江と明夫もチョークを持ち書きはじめた。

 

「鹿島小学校は、私の宝物なの。だから汚さないで」

「俺達の、最後の我家、鹿島小学校」

 

 それから四人は、鹿島小学校の思い出になるように、めいめい記念となる物を手にした。

 飯島は、チョーク箱を取り、明夫は、化石の標本を手にした。君江は給食用のアルミのお盆を手に取った。

 

「このお盆、何だかとても懐かしくって。帰ったら綺麗に磨いて机に置いておくわ」

 

ヒロは、理科室に散乱していた鉱石の標本の中から、紫水晶を見つけ出した。

 

「ヒロさん、綺麗な水晶ですね」

と明夫が言った。

 

「うん、昔仲の良かった友達が、この石がとても好きでね。それで記念にこれを持ちかえろうと思って」

 

「その友達の方、今はどうしているんですか」

と君江が言った。

 

「さあ、どうしているかなあ。もう二〇年以上も会っていないからなあ」

とヒロは答えた。

 紫水晶は、由希の好きな石であった。小学校三年の理科の授業で、始めて標本を見てから気に入ってしまった。

 

「ヒロ、今度おじさんと山へ行ったら、紫水晶取ってきて」

とせがまれたことがあった。

 この標本の水晶が、あのとき由希が見たものと同じとは限らないが、ヒロは大切に手に持った。

 

 四人は、小学校を出た後、大夕張神社と呼ばれていた小山の上に立っていた。大きな栗の木には、ロープが張られ、沢山の黄色い旗がそれぞれの思いをつづりながら結び付けられていた。

 それらの中に、ひときわ大きく「鹿島中学校第二六期会」と書かれた旗が、風に吹かれていた。

 明夫と君江は、旗の側へ行き結び目を直した。

 

「この二六期会の旗、目立つなあ」

とヒロが言うと

 

「本当にこの旗、大したもんだなあ」

と飯島も言った。

 

「凄いでしょう、これ、私達二六期生の自慢なんですよ」

君江は二人を見ながら嬉しそうに言った。

 
 その日は、とても暑い日であった。外気は、三〇度を越えていた。

 

「大夕張って、夏こんなに暑かったっけ」

「日中は、結構暑い日がありましたよ。でも朝夕は涼しかったですけどね」

 

飯島はヒロに答えて言った。

「イタヤカエデの木陰で休みませんか。車にジュース少し積んでいますから」

 

明夫は、顔の汗をシャツで拭いながら言った。

「今朝、妻が沢山サンドイッチを持たしてくれたのがあるんですよ。一緒に食べましょう」

と飯島も言った。

 

「ちょうど良かった。僕もクーラーボックスにビールを詰めてきましたから」

 

 四人は下に降り車から飲み物などを持ってくると、イタヤカエデの木の下にシートを引き、ビールで乾杯した。

「子供の頃、この木の下で良く遊んだなあ」

 明夫が懐かしそうに言った。

「私も、この木好きだったなあ」

 君江は、大きなイタヤカエデの木を見上げながら言った。この街で生まれ育った子供達は、みんなこの木の下で遊んだ思い出を持っている。ヒロにとっても、イタヤカエデの木の下は、大切な場所であった。

 四人は、それぞれの思い出を抱きながら、子供の頃のように、イタヤカエデの木に包まれ、大夕張と共にときを過ごしていた。

 

 

 

交流会

 その年の暮れ、ホテルの二階にある居酒屋に、ヒロ、飯島、明夫、君江の四人が呼びかけ人になって、「ふるさと大夕張」に思いを寄せる仲間たちが集まっていた。ホームページで呼び掛けたところ、二〇人の元住人達が集まって来た。

 

 会場の手配は、君江が請け負った。

 小上がりの掘り炬燵のある部屋で、落ち着いた田舎風の店であった。

 ほぼ定刻前に全員が集まった。

 ホームページの主催者である飯島は交通事情の関係で少し遅れてやって来た。飯島が席に着くと君江の進行で会は始まった。

 

「それでは、予定している参加者の方が全員集りましたので、これから、インターネットふるさと大夕張の第一回交流会を始めたいと思います。では、はじめにホームページの主宰者である飯島さんから一言お願いいたします。」

 

 会場には、世代を超えた年齢層が集まっていた。

 

「どうも皆さん初めまして、いつもお世話になっている飯島です。本日は大切な集りですから時間前に来ようと思っていたんですが、一番遅れてしまい申し訳ありません。お陰様で、ホームページも二日前にアクセスが一万件を超えることができました。始めた頃は、こんなに沢山の人に見てもらえるなんて思っていなかったものですから、本当、自分でも驚いているところです。僕自身は、小学校六年の時に大夕張を離れたものですから、同期会との接点もなく、大夕張の人たちとの接触もない状態で今日まできたところです。でも、このホームページを始めたお陰で、こうして皆さんとお会いすることができ、本当に嬉しく思っています。僕にとっては、長い間鹿島小学校だけが唯一大夕張との接点だったんですが、これからは、今日集まってくださった一九人の人たちを接点に、さらに交流の輪を広げることができるような気がしています。本日は、集まってくださって本当にありがとうございます。」

 

 飯島の挨拶が終わると、参加者は心を込めて喝采を送った。ここに集まった者たちは、飯島のこれまでの努力に、感謝の気持ちで一杯であった。飯島のお陰で、皆がネット上でふるさと大夕張を身近に触れることができた。

 現実の大夕張は、原野になってしまったが、ホームページの中には、みんなが子供の頃から慣れ親しんできた大夕張がまだ生きていた。

 

 それぞれ、ここに集まってきた者達にとっては、同期会以外の形で、大夕張出身者の集りを持つのは、初めてであった。下は二八才から上は五三才までの年齢層が集まっていた。始めの頃は、どことなく緊張していたが、乾杯をした後会話を重ねる中で、すぐに打ち解けた雰囲気になった。

 

 誰かが「何町に住んでいたんですかと」尋ね「栄町の二丁目だよ」と答えると「それじゃ、共同浴場のすぐ近くだ」周りの者が言い「知ってる、知ってる、あそこには、男ばかり三人の兄弟がいて、いつもおばさんに怒られていた...」という具合に、次から次へと話の輪が広がって行くのであった。

 そして、いつのまにか、旧知の仲のように親交を深めるのであった。

 そんな和やかさの中、明夫は立ちあがり

 

「皆さん、お話も弾んでいるところですが、本日私の同期である長谷部君が、皆さんに是非聞いてもらいたいと、珍しいテープを持ってきましたので、どうぞ聞いてください」

と言い、カセットレコーダのボタンを押した。

 

 参加者は、どんな音が出てくるのかと注目していると、蒸気の音ともに機関車が動き出し勢い良く走り出し、やがて汽笛の音とともに去って行き、列車の轟音が消えかかった頃、カラスの鳴き声が入っているものであった。

 

 みんなには、この蒸気機関車が大夕張鉄道を走っていたものであることがすぐに分かった。当時は、バスに比べ鉄道の方が運賃が安かったので、ほとんどの人は、大夕張鉄道を利用していた。

 

 テープの再生が終わると長谷部が話し始めた。

「今、聞いてもらったのは、大夕張駅から千年町方面に向け出発した大夕張鉄道の蒸気機関車の音です。汽笛の音ともに汽車が去った後にカラスの鳴き声が入っているのが味噌でして。当時の私は、中学二年でして、体重が今と比べ一五キロほど少なくて痩せていまして、何と大きなラジカセを抱えながら、汽車の横を一緒に走りながら録音したものです。そんな涙ぐましい努力をして録音した大夕張鉄道の音でした」

 

 長谷部が話し終わると、大きな拍手が沸きあがった。

 

「いや、たいしたもんだ。本当懐かしいなあ」

「長谷部さん、もう一回聞きたいな」

「そうだ、もう一回大夕張のカラスの声も一緒に聞かなくちゃ」

 

 そんなリクエストに応え、明夫はもう一度ラジカセのボタンを押した。蒸気機関車の力強い音を聞きながら、みんなは、少年の頃の長谷部が大夕張駅構内で、ラジカセを抱えながら汽車の横を走っている姿を想像していた。

 

 飯島は、蒸気機関車の音を聞きながら、参加者の顔を一人一人見て感動していた。小学校の卒業式を待たずに街を去った自分が、ヒロ、明夫、君江そしてここに集まってきた仲間たちを通じ、再び大夕張と繋がりを持てたことが嬉しかった。長い間渇望して手に入らなかったものが、今はここにある。そのことが、飯島の心を震わせていた。

 

 遠く走り去って行く汽車の轟音と、汽笛の音を聞きながら、参加者達の想いは、遥かなるふるさとに注がれていた。

 

 

 

メール

 再び春が訪れ、花たちが一斉に咲き始めた頃、飯島の元へ一件のメールが送られてきた。夕張市教育委員会からであった。

 

『問い合せのあった鹿島小学校の解体工事の件ですが、今秋の一〇月に入札を行ない、早ければ一〇月下旬から工事が始まる予定です』

 

 数日前飯島が、メールで夕張市に問い合せたことに対する回答であった。

「ついに、鹿島小学校が解体される・・・」

 

 飯島は、言い知れぬ淋しさでメールを見ていた。

 

 飯島は、ふと亡くなった父のことを思い出した。飯島がまだ小学校三年のとき、学校近くの友達の家に遊びに行ったことがあった。帰りに学校に寄り、ランドセルを取りに行けばよいと考えたが、そのまま家に帰ってしまい、ランドセルを忘れたことがあった。

 夕食を終え、明日の支度をしようとしたら、ランドセルを学校に置いてきたことを思い出した。両親にそのことをひどく叱られ、一人で取りに行くことになった。

 

 はじめは、強気で歩いていた飯島も、暗い校庭に差し掛かると、段々と心細くなりついには泣き出して立ち止まってしまった。すると自転車で先回りしていた父が近づいてきて

 

「ばかたれが、ランドセル粗末にしたらだめだべ。暗いから父さんも一緒に行ってやる」

 

と言い手を取りながら歩き出した。

 そして、学校の帰り道父の自転車の後ろに乗りながら見た、星空の輝きがいつまでも記憶に残っていた。

 

 

 飯島は、その夜ホームページの掲示板に、鹿島小学校の解体工事について書き込みをした。

 

 ヒロは、一人で鹿島小学校の前に立っていた。

 ホームページで解体工事のことを知ると、急に鹿島小学校に会いたくなり、長沼町での仕事が済むと、その足で大夕張へと向かった。

 昨年までは、何軒か残っていた建物も解体され、何もない原野の中に鹿島小学校は建っていた。手入れのされなくなったグランドには、タンポポたちが黄色い花を咲かせ、その上を風が吹きぬけると、まるで海原のように波打っていた。何年か振りに見るタンポポの海であった。

 

 一段と小さくなった街を歩くと、建物が解体された剥き出しのコンクリート基礎の周りにも、野の花たちが咲いていた。

 そして、木々からは鳥たちのさえずりが聞こえてくる。

 ヒロは嬉しくなってきた。たとえ、人々が去り街の形が消えても、大夕張は独りではない。

 そのことに気付くと、少し気持ちが救われた思いがした。

 

 三〇分程して、ヒロは大夕張を後にした。

 バックミラー越しに鹿島小学校を見たとき、校舎が泣いているように思えた。沢山の子供たちに囲まれて街の歴史を刻んできた鹿島小学校にとっては、原野になってしまった大夕張を見ながら、独りで建っているのは、やはり淋しいのだろう。

 ヒロは、もう一度子供たちの声を聞かせてやりたいと、バックミラーから消えて行く鹿島小学校を見ながら強く思っていた。

 

 札幌駅の近くの居酒屋に、ヒロ、飯島、明夫、君江の四人は集まっていた。解体工事が始まる前に「ふるさと大夕張」の仲間で、鹿島小学校のお別れ会の企画を相談するためであった。

 

「とうとう、鹿島小学校もなくなってしまうときが来たのね・・・」

 

 君江は溜息をつきながら言った。

 

「六月に仕事で長沼に来た時、鹿島小学校に寄ってみたんだけど、何だか寂しそうに見えたなあ」

 

 ヒロはしょんぼり言うと、ビールを飲み干した。

 

「みんなで、感謝を込めてお別れ会をやりたいなあ」

 

 飯島も頷くように言った。

 その後、明夫から、日時などについて提案があった。

 

「まず日時は、九月ぐらいが良いでしょうか」

 

「九月だと子供の学校祭の行事が重なるといけないから、一〇月の方が都合がいいんだけど」

 

「飯島さんと同じく、一〇月が良いなあ。九月だと学校関係の納品が多くて」

とヒロも言った。

 

「君江はどうだい」

「私も、一〇月の方が動きやすいわ」

 

「それじゃ、日程はあまり寒くならない一〇月三日の日曜日にしますか。場所はどうしよう」

 

「イタヤカエデの木の下がいいわ。だって、あそこは、みんなの思い出の場所だから」

 

「君江さんの意見に賛成だな。そして、もし、雨が降ったら体育館を使わせてもらおうよ。そうすれば、雨天決行で案内ができるよ」

 

「そうだね。飯島さんの意見で決めよう。天気が良ければ、イタヤカエデの木の下で、雨の場合は、体育館の中でということで。後は、当日何か用意するものはないでしょうかね」

 

 明夫は、3人の顔を覗きこみながら言った。

 

「明夫君、できれば会の前に玄関とか廊下のガラスきれいにして、掃除してやりたいなあ。ホームページで呼びかける時、参加者に掃除用具を持参してもらい、みんなで取りかかれば、そう時間はかからないと思うけど」

 

「ああ、ヒロさんのいまの提案いいなあ。もう一度みんなで鹿島小学校きれいにしてあげて、お別れ会なんてのもいいですね」

 

「私も賛成。あのままじゃ、鹿島小学校可哀相だもの」

 

 飯島と君江も賛成した。
 その夜、明夫は、ホームページの掲示板に書き込みをした。


 鹿島小学校の解体工事が早ければ、一〇月の末にも始まる模様です。最後にもう一度鹿島小学校の勇姿を見ながら、感謝を込めて、次の内容でお別れ会を行ないたいと思います。沢山の大夕張子の参加をよろしくお願いいたします。

と き ~ 一〇月三日(日)午前一一時鹿島小学校前集合
ところ ~ イタヤカエデの木の下
持ち物 ~ 焼肉で歓談しますので、各自飲み物、食べ物持参のこと。
(炭、鉄板などは用意します)
その他 ~ 会の始まりの前に、鹿島小学校の掃除をしますので、鹿島小学校の思い出と一緒に掃除用具を持参してください。


 

 

 

お別れ会

 

 外は、叩きつけるように激しい雨が降っていた。

 ヒロは、インターネットで明日の天気予報を見ていた。

 

「明日も雨か。せっかくのお別れ会なのに・・・」

 そのとき、明夫から電話がかかってきた。

 

「ヒロさん、まいったね、この天気。明日も大雨みたいですね。お別れ会どうしましょう」

 

「明日は、どんな嵐になっても、行かなくちゃ。最後に集まってみんなの顔を見せて、掃除して、ちゃんと鹿島小学校を送ってやらなくちゃ。天候によっては、集りが悪いだろうけど、予定どおり雨天決行でいこう。もし、明日中止したら、俺たち一生後悔するよ」

 

「そうですね。明日を逃したら、もうみんなで集まる機会ないですからね。僕はこれから参加予定者全員に、明日・荒天でも・決行とメール出します。それじゃ、ヒロさん、明日鹿島小学校で・・・」

 

「ああ、ご苦労さんだけど、明夫君もう一頑張り頼むよ。明日は、みんなで上手いビールを飲もう。それじゃ」

 

 電話を切った後、ヒロは「ふるさと大夕張」のホームページにアクセスした。

 そして、昭和四〇年代の鹿島小学校の写真を、もう一度拡大して凝視した。かつて、この地に石炭で栄えた街があったという、人々の生活の痕跡を留める唯一の建物になってしまった鹿島小学校。

 閉山後街は衰退し、帰る度に侘しさを感じていたが、鹿島小学校の前に立つ時だけは、その大きな校舎を見ると心が救われた思いがした。

 

 それは、校舎全体に長い年月を重ね、子供たちの歓声とそれを包み込む大人たちの生活の躍動が刻み込まれていたからだった。この場所は、かつてのふるさとに一番近い場所であった。

 

 嵐の中、ヒロはいつまでも鹿島小学校の画像を見ながら、グラスを傾けていた。

 

 翌朝、飯島は午前六時に家を出た。昨夜から気持ちが高ぶり熟睡できず、空が明るくなり出した頃起き出した。外は風こそ止んだものの、強い雨が降っていた。

 八時前には、鹿島小学校に着いた。清水沢を過ぎた頃から雨は小降りになり、大夕張に入ったときには、雨は止んでいた。

 

 飯島は、車から降りると空を見上げた。少しずつ雲が薄くなっていくのが分かった。

 飯島は、車から画用紙に描かれた一枚の絵を取り出した。これまでも、何度か一緒に来たことがある娘の真由美が描いた鹿島小学校の絵であった。

 

 「真由美、明日お父さんたちホームページの仲間で鹿島小学校のお別れ会やるけど、一緒に大夕張へ行こうか」

 

「えっ、鹿島小学校なくなってしまうの」

 

「うん、もうじき、壊されてしまうことになったんだよ。それで、明日みんなで集まることになったんだ」

 

「明日は、友子ちゃんのお誕生会に呼ばれているの。お父さん、私、鹿島小学校の絵を描くから、持って行ってくれる」

 

 飯島は、娘の描いた絵を、玄関のガラスの内側にしっかりとテープで貼り付けた。そして再び車に戻ると、雲の切れ間から薄日が射していた。

 

「やった、晴れてきたぞ、よーし」

 

 飯島は嬉しくなり声に出すと、車から、ほうきとダンボールの箱を取り出し、再び校舎の中に入っていった。

 

 ヒロは、エリック・クラプトンのCDを聞きながら、鹿島小学校へと車を走らせていた。自分が1番乗りだと思い、校門の坂を登って行くと、玄関前に飯島の車が止まっているのが見えた。

 車を降り玄関を開けると、飯島も振り向いた。

 

「あっ、ヒロさん、おはようございます」

 

「今日の一番乗りは僕だと思って来てみたら、飯島さんもう来ていたんだ。それに、掃除までして」

 

 ヒロは少し驚いたように言った。

「何だか今朝早く目が覚めてしまって。それで、八時ぐらいにここに来てしまって」

 

「やっぱり、僕も昨夜からあまり眠れなくて。それじゃ、ビールでも飲みながら気合入れて掃除しようかな」

 

 ヒロは車から缶ビールとほうきを取り出し、頭にタオルを巻きつけると、飯島の前に再び現れた。

 

 飯島とヒロが玄関のガラスの破片を集め、掃除が終わった頃、次々と参加者が集まってきた。

 明夫、君江、長谷部もやって来た。長谷部は妻と長男を連れて参加した。

 

 明夫たちは玄関に入るなり、見違えるほどきれいになった床などを見て言った。

 

「いや、きれいになりましたね。あんなにあったガラスの破片も片付いて。これ全部、二人で掃除したんですか」

 

「飯島さんも、僕も、何だか興奮して寝ていれなくて、朝早く起きてしまって。それで、飯島さんが一番乗りで、僕が二番乗りってことになってしまって。これだけ片付くと、本当に気持ちがいいなあ。ようし、もう一本ビール飲んで頑張るか」

 

「相変わらず、ヒロさん良く飲みますね。ところで、やっと晴れたけど、今日の会場どうしましょうね。ここのグランド、昔から水はけ悪いから...」

 

 明夫は、ヒロと飯島の顔を見ながら言った。

 

「さっき、ここに来る前に、真っ先にイタヤカエデの木の所に行ってみたけど、水が溜まっていたなあ」

 

 長谷部は残念そうに言った。

「まあ、嵐が去って、晴れただけでも良しとしなければ。それじゃ今日の会場は体育館ということで」

 

 明夫はそう言うと素早く厚紙に、「本日の会場は体育館です」と書き、玄関のガラスにテープで貼った。

 

「あっ、この絵、鹿島小学校だ」

 明夫が言うと

 

「娘が今日来れないものだから、鹿島小学校にあげるって、昨夜描いたんですよ」

 飯島は少し照れ笑いを浮かべながら言った。

 

「それじゃ、体育館と廊下みんなで手分けして掃除しなくちゃ」

 君江はほうきとダンボールを持ち、体育館へと歩き出した。

 手の空いている者たちも後に続いた。体育館も廊下もガラスの破片も片付けられ、久し振りにきれいになった。

 昨日まで荒らされていた校舎が昔の姿に帰っていた。

 閉校式以来埋もれていた鹿島小学校に、再び光が射したようで、誰もがその姿に喜びを感じていた。

 

 掃除が済むと、明夫の指示の下、参加者はそれぞれ分担し準備にかかった。椅子や台を運ぶ者、炭火の用意をする者、壁に字幕を貼る者、全てが今日という日のために、機敏に動いていた。

 

 準備が整い、会を始めると、参加者の数は、昨夜からの嵐に関わらず、三十数名にもなっていた。

 同期の他、家族で参加した者、あるいは兄弟で参加した者、中には赤子を含め、親子三代で参加した者もいた。肉を焼く音とともに、参加者の歓談の声も体育館に響き渡っていた。

 

「厚岸から届いたカキを持ってきたので、希望の方は手を上げてください」

 

 最年長の山川は、軍手を履きながら、大きな箱からカキを取り出し、網の上に置いた。

 

「厚岸のカキなんて凄いですね」

 

 ヒロは山川の側へ行くと、缶ビールを差し出しながら言った。

 

「どうも済ません。遠慮なく頂きます。南部の酒屋でビールを買おうとしたら、日曜日のせいか店が閉まっていて。だから、カキはあるのにビールの手持ちがなかったんですよ。本当助かりました」

 

 山川は、軍手を履いたまま栓を抜くと、グイと上手そうにビールを流し込んだ。

 

「ああ、上手いですね」

 

「こちらは、カキはありませんが、クーラーボックスに沢山ビールを詰め込んで来ましたので、遠慮なく飲んでください。僕は、掃除の前から飲み始め、これで五本目ですよ」

 

 ヒロは、少し上気した声でビールをもう一本山川に差し出した。そこに、長谷部が皿を持ってやって来た。


「すいません。カキを頂けますか」

 

「ああ、どうぞ、どうぞ。こっちが焼けているかな」

 

 山川は、大きなカキを3個皿に置いた。

 

「どうも、ありがとうございます」

 

 長谷部は、皿を受け取り礼を言った。そして、山川の顔を正面から見ると驚いて声をあげた。

 

「あれっ、代々木町アパートにいた、山川幸一さんでないの」

 

「ええ、そうですけど・・・」

 

「あれ、良く親父同士が酒飲んでいた、長谷部幸助の息子ですよ」

 

「あの、酒の好きな長谷部さんとこの」

 

 二人は、空いている椅子に座りこむと、数十年ぶりの再会で、話に夢中になっていた。

 

 もう一方のテーブルでは、飯島の同期の倉田が、天ぷらの準備を始めた。ダンボール箱から、水、天ぷら粉、ボールなどを取り出した。何を始めるのか、みんなも注目し始めた。

 倉田は同級生をアシスタントに食材の下ごしらえをしていた。そして、加熱されたフライパンに、衣をつけた海老をいれると勢い良く「ジュー」という音がした。

 

「はい、天ぷらが上がるよ。どんどん皿を持ってきてください」

 

 倉田は、寿司職人らしく歯切れの良い口調で言った。「ふるさと大夕張」の呼びかけに集まった鹿島小学校の卒業生たちは、それぞれの個性を繰り広げ、会を盛り上げていた。

 

「悪天候の中、良く集まってくれましたね」 

 ヒロは、新しい缶ビールを手に飯島の隣に座った。

「本当ですね。それに、体育館で焼肉をやるなんてのは、鹿島小学校始まって以来これが最初で最後でしょうね」

 

 ヒロは背中を押さえながら、飯島の話を聞いていた。

 

「ヒロさん、どうかしたのですか」

「ここしばらく、飲むと背中が痛くてね」

「そりゃ、ヒロさん飲み過ぎですよ。少し、体も労わらなくては」

「どうも一人で暮らしていると、ついつい飲む量が増えて」

 

 離婚してから、時間があればいつも飲んでばかりいた。少し量を押さえた方が良いのかもしれない。

 飯島の話を聞きながら、ヒロはそんなことを考えていた。

「そろそろ、黄色い旗まわしますか」

 

 明夫は、ヒロと飯島の顔を見ながら言った。

 ヒロは、今日のために用意したビニール製の特注の旗とマジックを図面袋の中から取り出した。それらを確認すると、明夫は皆の前に歩み出た。

 

「これから、黄色い旗をまわしますので、鹿島小学校に感謝を込めて一人ずつ書いてください。本日の会が終了後、いつまでも記念に残るように、大夕張神社に結びつけたと思います」

 

 参加者は、誰もが「黄色い旗」の意味を理解していた。旗がまわってくると、一人一人それぞれの思いを書きこんだ。それからも、際限なく歓談の輪が広がっていったが、やがて終了の時刻になってきた。

 

「まだまだお話は尽きないと思うのですが、時間になりましたので、最後に全員で校歌を斉唱したいと思います」

 

 明夫が立ち上がって言うと、飯島はラジカセにテープを入れ、ボタンを押した。校歌の伴奏が流れ出した。昨夜、飯島がキーボードを打ちこんで作ったテープであった。

 

太古の森を きりひらき
うもるる宝 かえさんと
力よほまれよ 血のひびき
きたわんかいな ああ大夕張

銀雪はゆる 夕張岳
源しるし 夕張川
のぞみよさかえよ 学びの舎
みがかん心 ああ大夕張

 

 この校歌の詩には、どこにも鹿島小学校の名は出てこない。最後は「ああ大夕張」で締められている。それほど、この街の歴史と鹿島小学校の歩みは深く結びついていたのであった。

 

 参加者は、大きな声で歌い上げた。この校歌は、街の歩みと共に、沢山の子供たちに歌い継がれてきた。

 若き両親と共に校門をくぐった入学式に、街ぐるみで参加した運動会に、そして、卒業式に。鹿島小学校の節目に、この街の歴史の中で、何度も何度も歌われ続けてきた。

 

 だが、今日の校歌は違っていた。これが鹿島小学校の校舎の中で歌う最後の校歌になる。それぞれが歌いながらそのことに気づいていた。参加者は、胸にこみ上げてくる熱いものを押さえつけるように、大きな声で歌った。

 この街は、もっとゆっくりと、地図から消えて行く運命を受け止めていたかったのかもしれない。だが、時代の流れは、急速にこの街を飲み込もうとしていた。卒業生たちの歌う校歌は、そんな流れに抗するかのように、校舎に響き渡っていた。

 

 校歌を歌い終わると、後片付けを始め、全てのゴミは持ちかえり、体育館は、いつでも授業が再会できるほどに清掃された。

 

 その後明夫の誘導で、参加者はイタヤカエデの木に向かい歩き始めた。

 外は、再び小雨が降り出した。子供の頃も大きな木だと思っていたが、イタヤカエデの木は、その存在を示すかのように、校庭に聳え立っていた。

 かつてこの校庭で遊んでいた子供たちは、鹿島小学校の大きな校舎と、イタヤカエデの大きな木にずっと見守られていたことを、改めて参加者たちは噛み締めていた。

 

 イタヤカエデの木の下で記念写真を撮ると、次は、鹿島小学校をバックに写真を撮ることになった。明夫は、デジカメのファインダーを覗きながら、鹿島小学校の雄大さを感じていた。この街の歴史を知らない者は、何もない旧産炭地に、突然姿を現している、その大きな校舎に驚きを感じるであろう。

 

 写真を撮り終わると、参加者は、しっかりと心にその勇姿を焼き付け、それぞれの言葉で鹿島小学校にお別れをした。

 

 解散した後、明夫、ヒロ、飯島、君江四人は大夕張神社の頂きに立っていた。さっきまで降っていた小雨も上がり、雲の切れ目からは、夕張岳を望むこともできた。

 

「それじゃ、やりますか」

 

 明夫は、旗を手に持ちながら言うと、張られたロープの空いている所を探した。三人も手伝い、一番高い場所を選び、結びつけた。

 

「ようし、これで風に吹かれても飛ばされないだろう」

 ヒロは、旗を見上げ満足げに言った。

 

「今日は、鹿島小学校のお別れ会をやれて、本当に良かったなあ」

 明夫も旗を見上げながら、感慨深げに言った。

 

「今日のことは、一生忘れないわ。この会をみんなで集まってやったことによって、私たちの思い出の中で、鹿島小学校がいつまでも生き続けるような気がするの」

 

「何だか、今日は神様が僕等に与えてくれた、特別な日になったような気がするなあ」

 

 飯島が言うように、今日という日は、四人にとっても、既に忘れられない特別な日になっていた。飯島、明夫、君江の三人は、もう一度鹿島小学校の中を覗いた後、それぞれ札幌へと帰って行った。

 

 ヒロは「少し酔いを覚ましてから帰る」と言って、一人校庭に残った。そして、誰もいなくなった校舎の中へもう一度入って行った。玄関に入ると、飯島の娘が描いた鹿島小学校の絵を、そっと右手でなぞった。それから、廊下を渡り、体育館へと歩いた。体育館の壁には「ありがとう鹿島小学校」と書かれた字幕が貼られていた。

 

 ヒロは、誰もいなくなった体育館で、今日ここに集まって来た一人一人の顔を思い出していた。

 みんな、良い顔をしていた。この街を後に社会に出て、色んな人生の道程を経て、鹿島小学校にお別れをするためにここに集まって来た仲間たち。やはり、飯島が言ったように今日は「特別な日」に違いないとヒロは思っていた。

 

 ヒロは、車に戻るとクーラーボックスからワインを取り出しコルクを抜いた。そして、イタヤカエデの木の下に歩いて行くと、その太い幹をさすった。

 

「本当に、ありがとう」

 

 ヒロはそう呟くと、ワインを少しづつ幹にかけた。その日、ヒロは夕闇が迫るまで、校庭のブランコに腰掛け、鹿島小学校とイタヤカエデの木と、そして、大夕張神社の黄色い旗たちと向かい合っていた。

 

 

 

 ヒロは、総合病院の消化器内科の診察室にいた。

 

「検査の結果ですが、すい臓がきわめて悪い状態です。すぐに入院が必要です。そしてもっと詳しい検査を行ないいます。杉田さん、ご家族の方は・・・」

 

 まだ、四〇歳ぐらいのメガネをかけた医者は物静かに言った。

 

「恥ずかしながら、五年前に離婚して、今は一人ですから家族はいません。先生、単刀直入にお聞きしますが、すい臓癌だということなのですね」

 

 ヒロは、医者の目を真っ直ぐに見て言った。

「そうです。まだ確定的なことは言えませんが、進行しているようです。すい臓癌は、自覚症状が出た頃には、進行していることが多いんです」

 

 その後、医者は今後の検査内容などについて説明した。

 ヒロは、鹿島小学校のお別れ会以来、背中の痛みに加え下痢が続いていた。そして職場に行くと「代理、顔色が黄色くなっていますよ」と言われ、ついに病院の扉を開けた。

 

 入院してから一週間ほど検査が続いた。やっと検査が終わった週末には、外泊許可が出たので、マンションに戻って来た。

 この一週間検査を受けながら、ヒロは初めて死というものを考えてみた。

 恐怖というものは、不思議なほど湧いてこなかった。それは、ヒロが日常の生活というものに執着していないためかもしれない。日々の生活に自分を縛りつけてくれるような、しがらみ、絆というものがないからであった。

 

 振り返ってみれば、いつのまにか、由希の二倍もの時間を生きてきた。特に辛いことばかりの人生ではなかったが、満ちたりとものでもなかった。あえて言えば、大夕張で過ごした日々が、一番穏やかであったと思えた。

 

 今までの人生で心に残る出来事を思い浮かべてみた。

 最初にイタヤカエデの木の下で会っていた由希のことが思い出された。

 もし、由希が生きていたなら、自分の人生は大きく変わっていただろうと思えた。

 次は、娘の有紀の誕生であった。今この世に思いを残すとすれば、それは娘のことであった。あの由希と同じ日に生まれるという偶然が何か運命的なものを感じていた。

 そして、最後は鹿島小学校のお別れ会であった。考えてみると、この三つの出来事は、どれもが由希に繋がっていた。

 

 一七才の時、イタヤカエデの木の下で由希と指切りをして以来、ヒロの横には、いつも由希がいた。何故こんなにも長い間、由希のことを引きずりながら生きてきたのか、ヒロ自身にもその答はわからなかった。

 

 ヒロは荷物の整理を始めた。取り出すとどれも捨ててしまっても構わない物ばかりであった。ビデオテープも、娘の成長記録のものだけを残し、外は全て捨てることにした。

 残った荷物は、家電製品、衣類を除き、衣装ケース一つだけであった。これが、四〇を前にした男の必要な全ての荷物であった。

 荷物の整理が終わると、パソコンを立ち上げた。「ふるさと大夕張」にアクセスすると掲示板には書き込みが増えていた。その中の飯島の書き込みをヒロは凝視した。

 

「一〇月三十日に入札が行われた鹿島小学校の解体工事は、来週の月曜日から始まることになりました...」

「ついに、鹿島小学校が消えてしまう・・・」

 ヒロはじっとしていることができず、掲示板に書き込みを始めた。

 


 大夕張の歴史を知らない人は、何もない原野の中に、突如として姿を現す鹿島小学校の大きな校舎に驚かれると思います。

 かつて、鹿島小学校の大きな校舎は、そこで暮らす人々にとっては「誇りと自信」に満ちているものでした。それは、奥地ながら夕張の本町にも負けない「大きな学校」であるという地域の誇りだったのです。

 大人も子供も大夕張で暮らした日々の思い出の中には、必ず「鹿島小学校」が出てきます。入学式の時に一緒に校門をくぐった若かりし頃の父母の姿。街中が参加した運動会。人々の営みの中で、鹿島小学校は凛として輝いていました。

 ダムのことさえなければ、話題性もなくマスコミも振り向くこともなかった、かつての炭鉱町・大夕張。本当は、静かに、ゆっくりと時間をかけ、自然に朽ちるのを待っていた街だったのです。それでも、そこで生まれ育った者たちには、大切な場所でした。

 あの秋のお別れ会のとき、紅葉し始めていた木々の葉も、今は土に帰り、まもなく降り積もる雪の下で、静かに眠りにつくのでしょう。

 昭和三年からこの地に根づき、街の繁栄から衰退まで、大夕張の歴史を見届けてきた鹿島小学校。あなたの、誇り高きそれでいて優しい面影は、決して色あせることはありません。長い間、本当に、ご苦労様でした。

 時代の流れは、あまりにも早く「大夕張」を飲み込んでしまいました。僕らは、あなたが残してくれた人々との絆を大切に引き継ぎ、これからも「大夕張」を未来・希望に向って語り継ぎ、交流の輪を広げていきます。 

 どうぞ、ゆっくりと、おやすみなさい。そして、いつでも、あなたがかつて愛しんだ子供たちの夢の中に、遊びに来てください。僕らは,あなたのぬくもりの中で、少年期を過ごすことができて、幸せでした。

「アリガトウ・凛として・ 誇り高き・ 鹿島小学校」


 

 ヒロは、投稿が終わると、明夫と飯島にメールを出した。

 明夫は、その夜職場の同僚と酒を飲んだ後、十一頃に帰宅した。

 少し飲み過ぎ酔いが回っていた。妻はパートがあるので、先に休んでいた。長男の和夫は、来春の高校受験のためまだ起きて勉強をしていた。

 

 明夫は、和夫の部屋をノックするとドアを開けた。

「よっ、ただいま。まだ頑張っているんだ」

 

「お父さん、お帰り。あっ、今日も酔っ払っている」

 

「あれっ、わかる」

明夫は、照れ笑いを浮かべながら言った。

 

「お父さん、約束だよ。僕も頑張るから」

 

「ああ、わかっているよ。ブルーのアイ・マック、合格したら買うから」

 

 明夫は、子煩悩であった。

 子供が生まれた時から、どんなに帰りが遅くても、寝顔をじっと眺め、遅い日が続くと、朝早く起きて、出勤するまで子供と遊ぶことさえあった。

 明夫はシャワーを浴びた後、パソコンを立ち上げメールをチェックした。すると、ヒロからメールが来ていた。

 

『明夫君、お元気ですか。お忙しいようですが、お体を大切にしてください。僕は、飲み過ぎがただったようで、今週の月曜日から、入院しています。病名は、すい臓癌です。こうなってみると家族がなく、一人身で良かったとも思っています。何かあれば、明夫君に連絡しますので、その節はよろしくお願いいたします。入院先は、次のとおりです・・・』

 

 明夫は、メールを読み終わると、気持ちが動転していた。

「ヒロさんが、すい臓癌だなんて・・・」

 

 明夫はすぐにヒロに電話をかけた。

「ヒロさん、明夫です。今メールを読んだところです。何と言っていいのか・・・」

 

「僕の方は、大丈夫だよ。特に痛みが激しいという訳でもないし。今週は検査だったから、来週には詳しいことが分かるけど。何かあった時の連絡先は、明夫君の所にさせてもらったから。こういう時は、職場関係より、同郷の友人の方が僕も気が許せるから・・・」

 

「ええ、それは構いませんから。外に何か手伝えることがあれば、いつでも連絡ください」

「ありがとう。日曜日に病院に戻る時は、パソコンも持って行くから、メールも使えるし。今日久し振りにホームページ見たら、鹿島小学校の解体工事ついに始まってしまうね。僕もさっき、鹿島小学校のことで掲示板に書き込みさせてもらったんだけど」

 

 二人はホームページのことや、同郷の仲間のことなど、取り留めのない話をした。電話でこんなに長いこと話をするのは、明夫にとっても、ヒロにとっても始めてであった。

 明夫は、電話の向こうに、元気そうなヒロの姿を感じることができ、少し安心することができた。

 

 明夫は電話を切ると、ホームページを開き、ヒロの投稿を読んだ。読み終わり目を閉じると、小雨の中、鹿島小学校の前で写真を撮ったあの日のことを思い出していた。そして、ビールを飲みながら、嬉しそうに掃除をしていたヒロの笑顔が浮かび上がってきた。

 

 飯島は、久し振りのヒロの書き込みを読んでいた。読み終わると、飯島の中にも何か熱いものがこみ上げてきた。街の衰退を最後まで見守ってきた鹿島小学校の凛とした校舎が脳裏に浮かび上がってきた。

 その後、飯島はメールのチェックをした。ヒロからもメールが寄せられていた。メールを読むと、飯島も動揺していた。

「ヒロさんが、すい臓癌だなんて・・・」

 飯島は、あの日鹿島小学校の前でみんなで写した写真の画像を呼び出した。

 同じくイタヤカエデの木の下で写した画像も呼び出した。どちらも、ヒロは笑顔を浮かべていた。

 

 三〇名の仲間が、小雨の中、みんないい顔をして写っていた。そこには「ふるさと大夕張」に思いを寄せる人々の絆が作られていた。飯島が個人的に始めたホームページから、これほどの人々の絆が作られることを、飯島自身も考えてもいなかった。

 全ての始まりは、札幌駅でヒロと会ったあの日からであった。

 ヒロを通じて明夫と知合い、明夫を介して君江とも繋がりを持てた。

 そして、この4人から交流会、鹿島小学校のお別れ会と人々との絆が広がり始めた。そのヒロが、今は病に犯されている。しばらく考えた末、飯島はヒロにメールを出した。

 

『ヒロさん、お陰様でアクセスも三万件を超えようとしています。大夕張の最盛期の人口の二万を上回る数字です。これもみなさんのお陰です。これからも、ホームページを成長させるためにも、ヒロさん、早く元気になって帰って来てください』

 

 

  

 

一枚の絵

 君江は、来週から始まる佐藤由雄の油絵の個展の準備に追われていた。

 佐藤由雄は大夕張の出身であり、君江の従兄弟でもあった。由雄はここ数年中央画壇でも認められるようになり、無名時代から一年おきに札幌でも個展を開いていた。

 

 君江は自宅に帰ると、子供たちに今日一日の話を聞き、その後パソコンを立ち上げた。

 君江の夫は、半導体の企業に勤めており、三年前からシンガポール勤務となり、単身赴任をしている。赴任前に、いつでも家族と話ができるようにとパソコンを備えつけた。

 君江は、来週から始まる由雄の個展について、掲示板に書き込んだ。

 


来週の月曜日から二週間、大夕張出身の画家佐藤由雄の個展を開催します。

スタッフは、友人関係を中心に個展をサポートします。

大夕張にちなんだ油絵も何点かありますので、是非ご覧になってください。
 

会場は次のとおりです...

 


 明夫は火曜日に、由雄の個展会場に仕事帰りに寄った。受付で記帳をするとき、君江を探したが見つけることができなかった。

 

「あの、田口君江さんは、いないのでしょうか」

 明夫は記帳を済ますと、受付の女性に聞いた。

 

「君江さんは、初日は一日中いたのですが、今日は用事があり来ていませんね。ひょっとしたら、大夕張のホームページを見ていらしたのですか」

 

「そうです。それと、君江とは同期の仲間ですから」

 

「そうですか。案内状を差し上げない方でも、ホームページを見たと言って多くの方が来てくださるの」

 

 受付の女性は嬉しそうに答えた。作品を見ると、色使いが穏やかで、どれも優しさが伝わってくる絵であった。中頃にさしかかると、神社から望む大夕張の全景が描かれた絵があった。ほとんど建物もない最近の大夕張の風景画であった。

 

 写真で見ると、荒んだ雰囲気が強く出るが、この絵は、不思議なほど穏やかさに包まれていた。何か大きな仕事をやり遂げ、これから休息を取ろうとする者の、安らぎさえ感じられた。そして、校庭にはイタヤカエデの木も立っていた。

 

 次の作品に移ると、鹿島小学校が描かれていた。それは、荒れ果てガラスの破られた校舎ではなく、今にも子供たちが飛び出して来そうな凛とした校舎であった。それでいて、穏やかで優しさに包まれた色使いの絵であった。

 

「ヒロさんにも、見せてやりたい」

 

 明夫はその絵の前で立ち止まってしまった。

 

「失礼ですが、大夕張出身の方ですか」

 

後ろを振り向くと、長髪の男性が立っていた。一目で佐藤由雄だと明夫にはわかった。

 

「そうです。代々木町のアパートに住んでいました。佐藤さんですね。こちらのスタッフの君江さんとは同期で、大夕張のホームページとも一緒に関わりを持っているものですから」

 

「君江と同期ですか。実は彼女の父親は、僕の親父の弟で、僕等は従兄弟なんですよ」

 

 明夫と由雄はすぐに打ち解け、懐かしい大夕張の話に興じていた。

 その日、明夫が自宅に帰ると、ヒロからメールが届いていた。

『明夫君、申し訳ありませんが、そちらの都合のよい日に病院へ来ていただけないでしょうか。僕の身内として、検査結果と今後の治療方針について、医師の説明を一緒に聞いてもらいたいのです。よろしく、お願いします』

 

 明夫は、すぐに返信のメールを送った。

『明日そちらの指定する時間に伺います。何か必要なことがあれば、いつでもメールをください。それと、仕事の帰りに、掲示板に書いてあった佐藤由雄さんの個展を見てきました。君江は佐藤さんの従兄弟に当たるそうです。どれも穏やかな色使いで、優しさのある絵でした。大夕張の絵も二点ありました。特に鹿島小学校を描いた絵からは、子供たちの歓声が聞こえそうな気がしてきました。本当に鹿島小学校が凛として建っていました...』

 

 明夫は、ヒロの病気のことを打ち消すかのように、由雄の絵のことを沢山書き込んでいた。

 

 

 明夫とヒロは、ナースステーションの隣にある部屋で、医師とその助手に向かい合って座っていた。

「それでは、よろしいですか」

 医師はゆっくりとヒロに言った。

 

「はい、お願いいたします」

助手は、これまでの検査で撮影したCTなどの写真を投射台に貼り出した。

「まず、検査結果から説明します。すい臓のこの部分に大きな腫瘍があります。今のところ、他の臓器への転移は認められませんが、リンパ節には転移しているようです。すい臓癌は、自覚症状が出にくく、出たときにはかなり進行していることが多いのです。このままですと、時間の問題で肝臓など他の臓器に転移する可能性がきわめて高いと思われます...」

 

 何も備品の置かれていない部屋で、冷酷な事実を説明する医師の声が響いていた。

 このままだと、最善を尽くしても余命は後1年余りであること。手術を受けた場合、3年後の生存率は10%であること。

 

 明夫は、予想以上にヒロの病状が悪いことに、ショックを受けていた。

 

「どちらの治療方針を採られるか、ご家族の方と良く相談して決めてください。大変な病状ですが、希望を捨てずに気持ちをしっかりとお持ちください。何か、質問はありませんか」

 

「何もありません。率直に病状を説明してくださって、ありがとうございました」

 ヒロは、しっかりした声で、落ち着いて答えた。

 病室に戻ると

「忙しい中、悪かったね」

 とヒロは明夫を気遣って言った。

 ヒロは、パソコンが使いたくて電話付きの個室に入っていた。ベットの横の棚には、本、CDが並べられていた。窓辺には、紫水晶が置かれていた。

 

「あっ、この水晶あのときの・・・」

「去年の夏、四人で鹿島小学校へ行ったときの水晶だよ」

 

 ヒロは、紫水晶を手にすると懐かしそうに言った。

 

「あの日は、本当に暑い日でしたね」

明夫も椅子に座りながら、思い出して言った。

 

「メール読んだけど、佐藤由雄さんて、僕より一学年先輩でいたのを覚えているよ。それに、君江さんと従兄弟とは驚きだなあ。絵も何か穏やかに描かれていてとても良さそうだね。僕も、鹿島小学校の絵だけでも見たかったなあ。あの日、みんなでお別れ会やれて本当に良かったなあ。もし、何もしないうちに、校舎が壊されてしまったら、一生後悔したろうなあ。本当に、いいお別れ会ができたよ」

 

 明夫もあの日のことを思い出していた。ビールを飲みながら楽しそうに笑っていたヒロの顔が浮かんでくる。そのヒロが死ぬだなんて・・・

 

「ヒロさん、俺、小さい頃ヒロさんに沢山遊んでもらったこと、感謝しています。そして、何十年かぶりでまたこうして会えて、みんなで交流会したり、鹿島小学校のお別れ会したりして・・・俺もっとヒロさんと、色んなこと一緒にやってみたいと思っています。だから、ヒロさんには、ずっと生きていて欲しい・・・」

 

 明夫は言葉にならず、これ以上話ができなかった。

 

 明夫が帰った後、ヒロはぼんやりと窓の外を見ていた。ナナカマドの木葉も半分ほど落ちていた。もうじき、雪が降り全ては白一色に包まれてしまう。

 ヒロは、医者の言葉を思い出していた。

 今のヒロには、何としても生き長らえて守るべきものが見あたらなかった。この病気になったのも宿命なら、あらかじめ定められた寿命を受け入れる方が、自然のような気さえしていた。後、一年で命が尽きる。それならそれで良いではないか。ヒロは、自分でも不思議なほど静かな気持ちで、死と向かい合っていた。

 

 明夫は、飯島と君江にヒロの病状についてメールを出した。そして、鹿島小学校の絵のことを考えていた。何としても、ヒロにもあの絵を見せてやりたかった。でも、もし売れていたならどうしよう。明夫はすぐに君江に電話をした。

 

「はい、田口です。あら、明夫。今メール見たばかりだけど、ヒロさん大変なことになってしまって。ねぇ、どうしよう・・・」

君江は、心が落ち着かず、矢継ぎ早に話した。

 

「君江、落ち着け。ヒロさんが、鹿島小学校の絵をとても見たがっているんだ。あの絵まだ売れていないか」

 

「大丈夫、今日はまだ売れていなかったわ。でも、大夕張の全景は初日に売約済みになったからね。鹿島小学校の絵も結構人気あるから・・・」 

 

「君江、あの絵佐藤さんに話して売約済みにしてもらえないか。今まで交流会やお別れ会に来た人に呼びかけて、オーナズ形式でなら、何とか買うことができると思うんだ」

 

「でも、明夫、あの絵30万もするのよ。そんなお金すぐには集まらないわよ」

 

「わかっている。みんなにすぐメール送るから。君江、ヒロさんには、もう時間がないんだよ。俺何としても、あの絵ヒロさんの病室に置いてやりたいんだよ。今日ヒロさんの所へ行ったら、あの紫水晶が置いてあったんだ。ヒロさん、鹿島小学校が好きなんだ・・・」

 

「わかったわ。絵の方は明日押さえておくから。それと、私も心当たりにオーナの件声かけてみるから」

 

 翌日、君江は明夫とのやり取りを由雄に話した。

 

「この鹿島小学校には、みんな色んな思いが込められているんだなあ。僕もデッサンから始め、色をつけ仕上げるまで、子供の頃を思い出しながら描いたんだよ。そこまで大切に思われている絵なら、もう個人に売ることはできないなあ。大夕張の人たちがもっとも相応しいと考える場所に置いてもらえるのが、この絵にとっても、僕にとっても一番良いんだろうね。その相応しい場所が見つかるまで、この絵の管理は、君江に頼むよ。明日で個展も終わりだから、その後ホームページの仲間で、ヒロさんにこの絵を届けてもらえるかい。本当は、僕から渡したいんだけど、明日中に飛行機で横浜に帰らないといけないから。ヒロさんに、早く元気になってくださいと伝えておいて」

 

 由雄は、自分の描いた絵がこうして同郷の仲間の心の掛け橋となれたことを嬉しく思っていた。

 

 
 日曜日の夕方、病室をノックする音がした。

「はい、どうぞ」

 ヒロは、ベットの上から大きな声で言った。

 ドアを開けると、明夫と君江が入ってきた。君江は花束を持ち、明夫は大きな包みを持っていた。

 

「やあ、いらっしゃい」

ヒロはベットから起き上がり二人を見た。

 

「ヒロさん、これ」

と言って君江は花束を渡した。

 

「ありがとう、きれいな花だね」

ヒロは大切に受け取ると、棚から花瓶を取り出した。

 

「私がやるわ」

 君江は、部屋の洗面台へ行き、花瓶に水を入れ、花を生けた。

 

「これで、病室も明るくなったなあ」

 ヒロは、花瓶を受け取ると窓辺の紫水晶の隣に置いた。

 

「ヒロさん、これ、鹿島小学校の絵だよ」

 明夫は、嬉しそうに箱から絵を取り出し、ヒロの前に置いた。

 

「あの、佐藤さんが描いた絵・・・」

 

「そうです」

 

 ヒロは、じっと絵を見た。

 確かにそこには、今にも子供たちの声が飛び出してきそうな、校舎が描かれていた。

 明夫が言うように、穏やかで優しさに包まれている絵であった。こうして見ているだけで、懐かしく心が温かくなってくるのが感じられた。

 

「本当に、いい絵だね」

ヒロは、心を込めて言った。

 

「ヒロさん、この絵、退院するまでここに置いてください」

明夫の申し入れに驚きながらヒロは言った。

 

「でも、この絵は佐藤さんの大切な作品でしょう」

 

「いいえ、佐藤さん本人が、ヒロさんの側に置いておくように言ったのよ」

 君江は、昨日の明夫と由雄の話の経緯を説明した。

 君江の話が終わると、ヒロは二人に頭を下げながら言った。

 

「二人ともありがとう。同郷のよしみでここまでしてもらえれば、僕は幸せ者だ。佐藤さんの気持もとてもありがたい。こんなに素晴らしい絵を側に置いて見れるなんて。本当にありがとう・・・」

 

 一枚の絵に寄せられた人の心の優しさに触れ、ヒロの魂は感動していた。それに伴い、ヒロの中で、「まだ生きていて、みんなと一緒に笑ったり、涙を流したり、そんな時間をいつまでも共有していたい」という気持が湧きあがってきた。

 

 

 

小さな命

 その夜、ヒロはテレビのニュースを見ていた。

 一歳を過ぎたばかりの小さな女の子が映し出されていた。

 体中に管をつけながらベットに横たわっていた。

 傍らには、母親がいて女の子に話し掛けていた。すると、女の子も管の絡みついた手を母親に差し出そうとしていた。

 女の子は、生まれながらに疾患を持ち、心肺同時移植以外に助かる道はないという。そのため、渡米して手術を受けなければならず、二億円あまりの費用が必要であるため、募金を呼び掛けているものであった。

 

 管のついている手を、母親に必死に伸ばそうとしている女の子の映像が、ヒロの頭から離れなかった。

 必死に生きようとする小さな命が輝いて見えた。いつもなら、通り過ぎていく日常のニュースの映像であったが、小さな命の輝きは、ヒロの中に留まり、ヒロの心に食い込んでいた。

 

 ヒロは女の子が助かるように心から願っていた。そして、ヒロ自身もわずかな可能性でも、生きていたいという気持が強く湧いてきた。

 人はどんなに孤独に思えても、決して一人ではない。常に誰かに支えられ、励まされ、そして生かされている。そんな命の重みを、ヒロは、小さな女の子から教えられた。

 

 

 

 

イタヤカエデの木の下で

 手術の前日、病室には飯島、明夫、君江そして長谷部が見舞いに来ていた。

 最近行った大夕張の様子や、ホームページのことなどをみんなで 楽しく話していた。

 傍から見ると、これから大手術を受けるという緊張感もなく、気の合った仲間たちの集まりのようにさえ見える。

 

「そう、そう、今日はクリスマスツリーを持ってきたのよ。もう子供たちも大きくなって誰も振り向きもしないから、ここに飾ろうと思って」

 君江は、紙袋からツリーと飾りを出した。 

 明夫たちも、飾り付けを手伝った。

 

「クリスマスツリーか、懐かしいなあ。昔良く娘に飾ってやったなあ」

ヒロは、明夫たちの手で飾り付けられていくツリー見ながら言った。

 

「ヒロさん・・・娘さんに知らせなくていいんですか」

明夫は遠慮しがちに言った。

 

「明日死ぬ訳じゃないし、いいよ。いつも、向こうから連絡があれば会っているけど、こっちからは、連絡しないことになっているんだよ。会いたいときにだけ連絡するんでは、向こうのことも考えず勝手過ぎるからね。つまり、離婚するってこういうことなんだろうなあ」

 

そこへ看護婦が検温にやって来た。

 

「あら、素敵なクリスマスツリーですね。ここだけが、病室でないみたい」

 

 看護婦の話を聞きながら、ヒロたちは互いの顔を見て微笑んだ。

 その夜、ヒロはラジオを聞いていたが、どの局もクリスマスソングが流れていた。病室で聞くクリスマスソングは、世間の華やかさとの乖離を感じるようで心が落ち着かないものであった。

 

 検査の結果を聞いたときは、これも寿命なら仕方がないと、静かに「余命一年」という現実を受け入れることができた。だが、生きたいと思ったときから、死に対する恐怖心が湧いてきた。同じ現実でも、執着心があるとないとでは、こうも違うものかと自分でも驚いていた。

 手術が成功しても、三年後の生存率は一〇%という現実が、今は重く感じられていた。今のヒロは、この一〇%という生存率に、全ての希望をかけていた。

 明日の手術に備え、睡眠薬を看護婦は渡してくれた。

 普段は良く眠れる方であるが、今晩だけは飲んでみようと思っていた。

 外を見ると、夕方降った雪が薄らと辺りを被っていた。それを見て、鹿島小学校の跡地も雪に包まれ、今は白一色の世界なのだろうとヒロは思っていた。

 

 明日からは、しばらく自由に歩くこともできないので、寝る前に少し歩いてみようと、ヒロはベットから降りた。まだ消灯前なので、病室からは、テレビの音や話し声が廊下に漏れていた。

 廊下を突き抜け検査病棟へ行くと照明は消え、非常灯だけが灯っていた。ヒロは廊下にある大きな窓に向かって歩いた。そこからは、手術室が見えるはずであった。

 

窓辺に立った途端、雪明かりの中、大きな月がヒロの目の中へ入ってきた。それは、みなぎるほどの満月であった。まるで生命が満ち足りているような大きな満月であった。

 

 ヒロは、その生命力を吸い取るかのように月を見つめ、心の中で誓った。

「俺は、必ず治る。俺は、絶対に、生きる」

  

 

 翌朝一〇時頃に、飯島、明夫、君江の三人は、病室に来ていた。

 ヒロの手術は、十一時から始まる。

 ヒロは手術着に着替え、鼻からは管がつけられていた。

 ヒロは、努めて明るく振る舞い話し掛けていた。

 

「明夫君、今朝何食べた」

 

「えーと、パンにサラダに牛乳、それとウインナーかな」

 

「あら、明夫は洋食なんだ。私は昨日の残りのカレーと卵スープ」

 

「君江さん、それじゃ子供から文句が出るだろう。僕は、大根の味噌汁と納豆かな」

 

 飯島は、君江の顔を見ながら言った。

 そのとき、ノックをする音がした。

 明夫がドアを開けると、有紀が立っていた。

 

「有紀、どうしてここが」

 ヒロは驚きながら言った。

 

「ヒロさん、昨夜有紀ちゃんから電話あって。いくらマンションに電話しても留守電だから、会社に電話したら入院してるって聞いて。そこで連絡先に僕の電話番号を教えられたって。それで僕が、ヒロさん今日手術するって知らせたんですよ」

 

「そうかい。かえって迷惑かけたね。有紀、良く来てくれたね。ありがとう。こっちへおいで。ここにいる人達、お父さんの友達だから」

 

有紀は部屋に入ると明夫たちに挨拶をした。

 

「私手術って聞いて、お母さんにも内緒で来たんだけど・・・本当は少し迷ったけれど、お父さん一人ぽっちだったら可哀相だと思って。でも、こんなに人がいて良かった」

 

 有紀は、みんなの顔を見ながら少し恥ずかしそうに言った。

 やがて、手術の時間が迫り、ヒロを手術室に運ぶために二人の看護婦がやってきた。

 
「杉田さん、そろそろ時間ですから。付き添いの方は、一緒にいらして手術室の前の待合室でお待ちください」

 

 一人の看護婦が、明夫たちに言った。長い廊下を渡りエレベータに乗った。エレベータのドアが開くと、そこは手術室であった。

 

「それでは、付き添いの方は、あちらでお待ちください」

 

看護婦がそう言うと、明夫たちは、ヒロに言葉をかけた。

「ヒロさん、頑張って」

 

「みんなどうもありがとう。有紀もありがとう」

 ヒロはゆっくりと右手を上げながら、手術室へと入って行った。

 

「それでは杉田さん体を横に向けてください。少し背中がチックとしますが、すぐに麻酔が効いてきますから」

 

 麻酔医は消毒をすると、ヒロの脊髄に細い管を入れた。

 ヒロは薄れて行く意識の中で、鹿島小学校の前に立っていた。

 ヒロを呼ぶ声がして振り向くと、イタヤカエデの木の下に明夫たちが集まっていた。そこには、由希も立っていた。ヒロは手を振ると大きな声で言った。

 

「必ず元気になって、また、みんなと一緒に、イタヤカエデの木の下に行くから」

 

 ヒロの声は、校庭を吹き抜ける初夏の風に乗り、ふるさと大夕張の大地に響き渡った。

 

 (2000年 発表)

 


(作者紹介)

夕張市鹿島生まれ
生まれてから高校卒業までの18年間を大夕張で過ごす。『ふるさと大夕張』にはしばしば投稿していたようだが、素顔は謎である。札幌在住。


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