山車の三味線(お祭りと師匠さん)|Kawauchi Masami

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昭和44年 緑町の山車の三味線。師匠とお弟子さんで演奏。

白黒写真に着色した画像

 

「みどり」町の提灯がかかる山車の上で

 


 お祭りの神輿道路の交差点や町境などで、上下に大きく揺らしながら、「わっしょい。わっしょい」と、その場で神輿を回すのが一番好きでした。

 

 もちろん交差点のど真ん中でね。

 出店と言えば、今ではいつでも食べられるけど、アメリカンドック、焼きそば、綿飴も、出店ならでは。

 小学校3年生ごろ,、出店の出品内容が、違う様になって来たみたいな気がします。

 昭和36~37年ぐらいは、綿飴・鉄砲・輪投げ・型取り・ヒョコ・金魚すくい・ヨーヨーすくい、100円均一、つぶやき、亀・やどかり、辺りかな・・・。

 それが、昭和38年ごろ、食べ物が増えました。

  まずは、アメリカンドック・焼そば。

 初めて食べる味に、トリコになりました。

 当時 お祭りとお盆の 出店でしか 食べれませんでしたね。

  ひよこ・ヤドカリ・緑カメ・型抜きや、スマートボール・・あの3日間楽しかったな〜。

 

 

 色んな 師匠さんいましたね。私達の場合、お祭りの太鼓の師匠さん。

 その太鼓に合わせるを、教えてくれる師匠もいました。

 太鼓に、鐘が、合わさると、なんとも楽しい音色になりました。

 私達の時は、横笛の人がいませんでしたが、私が小さい時、横笛の人がいた様に、記憶してます。

 また、太鼓を叩きながら、町内を回りながら、太鼓は子供達が叩いているのですが、おじさんが、口に含んだ お酒を、思いっきり叩いてる太鼓に向け、吹き付けていました。

 なんでも太鼓の皮が濡れると、音が良くなると言ってました。

 その姿を見て、一段と盛り上がりました。

(2021年6月14日 記)


 (筆者紹介)

昭和29年6月生まれ三男として 南清水沢で生まれ、2歳の時、緑町に、のち春日町で18歳まで大夕張で暮らす。昭和48年、一時大阪へ転出するが、昭和50年帰郷、南大夕張鉱業所ヘ就職し、平成2年3月の閉山まで勤務。

 


思い出の記

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