協和会館 戦後

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 昭和20年代後半か。協和会館の東側に昭和30年に建築される代々木アパートがまだない。

 写真の協和会館は、昭和32年に改築、改装される。

 協和会館前。標語塔には、『続く保安に輝く記録』『増産は一人一人の保安から』とスローガンが書かれている。

 改装後の協和会館の写真には、この標語塔は写っていない。改築と同時に取り壊されたようだ。

 1950年代、よく見られた『いすゞ4屯?トラック』だろうか、その、荷台には、あふれんばかりに子どもも含めた男女がのっている。 前列は、吹奏楽器をかかえた正装姿の男性がいて、まさに演奏をしているかのようである。

 楽団と協和会館というと、『大夕張炭砿労働組合 事務所』のページで紹介した、協和会館での『日鉄輪西ブラスバンドの熱演』を思い出すけれど、それにしても、家族連れのような和気藹々とした荷台の雰囲気も気になる笑。

 

 当時、吹奏楽を演奏する楽団のようなものが大夕張にあったのだろうか?

 昭和21年10月5日、沢口文伍を団長とする『ラッキースターズ』という音楽団体が発足していた。終戦の翌年であり、文化団体としてはずいぶん早いスタートだ。

 『ラッキースターズ』というハイカラな言葉の記憶から、ふと思い出して、大夕張炭労の『二十年史』(s43)を開いて見ると、トラックならぬ、馬にひかれた荷台の上の楽団の話が出ていた。

 昭和21年(1946年)5月1日の大夕張で行なわれた戦後初のメーデーの話である。

 

 炭労は、会館にメーデー記念臨時大会を召集、会社に期限付き回答の要求決議をした。馬に引かせた荷台上の「黒ダイヤバンド」を先頭に、参加者は会場の国民学校(鹿島小学校)グラウンドへ出発した。

 若者が、「団結・団結・団結」と大書きした大プラカードを押し立て、一般、土建、林業、職組、青年会と合流し、千年町から礦業所前までの直線コースのデモ行進にうつる。

 小雨をついて吹奏される労働歌にナニゴトならんやと、ツッカケ下駄の子どもが、ポッケに両手をいれて、ボンズ頭に小雨をブッツケながら、見に駆けつける。

 臨時大会が行なわれた協和会館で、記念行事も行なわれた。

「全大夕張歌謡曲、舞踊コンクール大会」と銘打ち、前評判も上々で盛り上がっていたらしい。

 

 『歌謡曲部門』と『舞踊部門』に分かれて、コンクール形式で住民から出場を募った。 

 『歌謡曲部門』は「黒ダイヤ楽団」と、沢口文伍率いる「ラッキースターズ」の生バンド演奏で行なわれた。

 楽団は、レパートリーも豊富だが、メンバーは、職員・鉱員の素人の同好者。出演希望者は、楽団から提示された曲目の中から、事前に選んで申し込む、という形だった。

 当日の様子を『二十年史』は、次の様に伝える。

 

 出場者は、バンドの演奏にあわせなくてはと、早めに集まり練習をしていたが、いざ本番ともなれば、「ヒャ、ヒャアー」とひやかされ、ボーッとなって声にならなかったり、頭をかいたり。

 しまいには、舞台袖にいそいで隠れるしまつ。 するとこれまた大爆笑、喝采が沸き起こる。また、子どものあどけない舞の姿には、惜しみない拍手がおくられた。出場者は、50人で、午後四時、笑いの余韻を残して閉会した。

 という盛り上がりようだった。

 ちなみに『歌謡曲部門』の第一位は、『高原の旅愁』という曲を歌った水原勘吉さんという方だった。五位までが、『名月赤城山』とこの曲の二曲で入賞している。当時、鉄板の人気曲だったのだろう。

 

 『高原の旅愁』は、昭和15年、伊藤久男のヒット曲で、今はYOUTUBEでも聞くことができる。

 当時のはやり歌である。聴けば北海道大夕張の地で、故郷を思い、歌った、私たちのおとうさん・おかあさん、おじいちゃん、おばあちゃんの心境に、すこしでも近づくことができるかもしれない。そして、『信濃路』の歌詞を『大夕張』に置き換えれば、それは、そのまま子や孫の心境でもある。

  

 この写真だが、『黒ダイヤ楽団』、あるいは、『ラッキースターズ』だという、真偽のほどは分からないが、当時の雰囲気は感じることができるのではないだろうか。 

 

白黒写真に着色した画像

改築前の協和会館。背の高い標語塔が目をひく。


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