昭和28年 鹿島小学校歴代校長
鹿島小学校開校25周年記念行事の際の写真。
鹿島小学校グラウンドでの記念撮影。
背後のグラウンドでは、野球の試合が行なわれ、撮影に臨む伊沢校長や、亀井校長もサンダルやスリッパなのも、飾らない当時の時代の雰囲気が感じられて面白い。
昭和3年の開校から数えて、7代目は、当時の石垣貞司校長。
この日、初代から現職の7代目までの歴代校長が、顔を並べた。
前列 向かって左から(以下敬称略)
1人目 初代 佐 藤 勇 蔵 (昭和3年9月25日着任、昭和6年4月10日退任)
2人目 3代 伊 沢 豊 久 (昭和8年3月31日着任、昭和19年4月14日退任)
3人目 2代 佐々木 久五郎 (昭和6年4月10日着任、昭和8年3月31日退任)
4人目 5代 亀 井 茂 房 (昭和22年5月1日着任、昭和25年3月31日退任)
後列 同じく左から
1人目 6代 横 路 時 男 (昭和25年3月31日着任、昭和27年12月1日退任)
2人目 4代 内 山 清 治 (昭和19年7月20日着任、昭和22年5月1日退任)
3人目 7代 石 垣 貞 司 (昭和27年11月1日着任、昭和34年4月1日退任)
昭和28年10月1日が、二十五周年記念日だった。この日は、木曜日で平日だった。
さまざまな記念行事が催されている。
開校記念日にあたる10月1日には、学校行事として、記念旗行列、児童相撲大会が行なわれる旨が『開校二十五周年記念 学校概要』に予定として掲載されている。
10月第1週の日曜日となる10月4日には、鹿島小学校の25周年を祝う、『記念式典』と、『祝賀会』が催された。
写真は、この時のものと思われる。
『開校二十五周年記念 学校概要』誌は、次のリンクから見ることができる。
https://ooyubari.com/category/siryo/hondana/gaiyokasimasyo/
飯田様
先日、横路家と炭鉱に関して調べものをする機会があり、夕張や祖父が経営していた東釧路炭鉱について調べましたが、エピソードを入手することは殆ど出来ませんでした。
父の代より殆どの親族が札幌に移り、祖父も夕張時代の話を話を父にしなかったため、夕張での横路家の生活をイメージする事が出来ません。時間をかけて夕張の事を調べようと思っています。
サイトの更新を楽しみにしています。
私は横路時雄の兄の雅美の孫にあたります。
時雄の弟の横路節雄は札幌師範学校卒業後、小学校教諭となり、1952年、北海道1区から立候補し社会党議員となる。
時雄の兄の雅美は北海道炭礦汽船退職後に東釧路炭鉱、ゼオライト工業株式会社を立ち上げ一族を支えました。
貴重な写真を有難うございました。
はじめまして、こんにちは。
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祖父長谷川安造は、昭和13年から32年まで鹿島小学校に勤務しました。
退職後、私は祖父の家で13年間一緒に暮らしました。
その際、特に自分が鹿島小学校で教頭を務めた時代の校長だった、横路先生、石垣先生のお名前はふだんの生活の中でたびたび話題に出てきていたことを覚えています。
そのご縁で、96歳で亡くなるまで孝弘さんの後援会に入っていました。
下のページには、昭和26年鹿島東小分離する年の職員写真の中で、祖父が横路校長と一緒に写っています。
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飯田様
ご紹介頂き有難うございます。早速拝見しました。
またも貴重な写真を有難うございます。
札幌の時雄のお嬢さんへ印刷して送りたいと思います。
二列目の左から六人目が恐らく時雄と思われます。
飯田さんの御祖父様の写真の位置をご教示願えますか。
ありがとうございます。
祖父は、最前列右から四人目です。
画像も添付しますので、併せてご覧ください。
節雄さんの話も、祖父の話によく出ていて、残念ながら道半ばにお亡くなりになったことを当時繰り返し話していました。自分もお名前だけは存じ上げていました。
生前、孫と祖父の関係でしたが、大夕張のことはほとんど聞くこともなく、祖父が残した書き物や、アルバムの写真を見て、想像するだけです。