乾電池 その2 | 高橋正朝 #53
私が、鹿島東小学校4年生のときである。
シタジキをこすって静電気を起こし、細かく裂いたチリ紙をくっつけてみたり、同級生の頭の上にかざして、髪の毛を逆立てたりして、遊んでいた。
当時のクラスの男児の多数は坊主頭である。
25人ぐらいいたクラスの男児のなかで、坊ちゃん刈りをしていたのは5〜6人ぐらい。
それらの男児の髪の毛を逆立てることもやっていたが、大半は、女児の頭上にシタジキをかざしていた。
誰々にやったかは、今となっては覚えていない。
女の子は、「 イヤ〜ン 」と言って嫌がるのだが、「 ハイッ、それではやめる 」なんてことはなかった。
「 イヤ〜ン 」なんて言われると、さらにやっていた。
どうも、私の人格は、鹿島東小学校4年生になって変わったように思う。
小学校1年生のときの担任の先生だった、長谷川ヒロ子 先生が、4年生の私を見たら、きっと目を丸くしただろう。
やはり、1年生のときに隣席だった、新聞集配所の子だったおとなしい性格の、細川 さんという女児も、多分、目を丸くしたに違いない。
静電気のことは、小学校2年生のときには、すでに知っていたように思う。
マンガで、特に冬の場面では、登場人物が、ドアノブに手をかけると、バシッー★ と火花が散って、体かしびれる場面があったりしたからだ。
当時、少なくても、明石町に住んでいた人たちは、ドアノブに手をかけて感電することはなかったはずだ。 番外地や炭住に住んでいた人たちの家のなかの部屋の戸は、木枠の引き戸だったし、窓枠や玄関の戸も木製だったので、金属に触ったときのような静電気の影響はなかったと思う。
ただ、代々木町のコンクリート4階建てのアパートに住んでいた人たちの各戸の入口は金属ドアだったので、冬季には、それに触ったら、静電気による感電ショックはあったろう。
小学校4年生前後に、ようやく化繊の衣料が出てきた。
羊毛の衣料はあったが、高価なので、当時の衣料は、まだまだ木綿が主力だった。 だから、セーターを着たり脱いだりしたときに、化繊特有の、静電気の張り付くような現象にみまわれることは、ほとんどなかった。
化繊と木綿や羊毛との混紡も、発売はされていたかもしれないが、私の周囲ではまだ一般的ではなかった。
4年生の初夏のころ、クラスに万年筆を持ってきた同級生がいた。
本人のものではない。父親のものだ。
当時の万年筆は、インクの補充はカートリッジ式ではなく、ゴムの部分にインクを溜める方式だった。 スポイトのようにして、インク壺から吸い上げていた。
万年筆は、当時の物価からするとかなり高価なもので、たとえ、プレゼントされたにしても、小学生が持つようなものではなかった。 親でさえも所持していないのが普通だった。
手紙は、差しペンで書いていた。 ボールペンでさえも、まだ一般的には使用されてなかった。
その同級生が、父親の万年筆をクラスに持ってきたのは、見せびらかすためではなかった。
目的は、万年筆のギャップで、実験というか、あることをするためだった。
彼は、万年筆のキャプを、自分のズボンの太ももでこすり、そのキャプを歯でくわえろてみろと言った。
―――★★★!!!
静電気による、すごい感電ショックだった。
それから2〜3ケ月後、我が家の本箱の下にある引き出しの中に、見馴れないものがあった。 大きめな四角い消しゴム形のもので、ナショナルのロゴマークが表示されている。
頭部分の側面には、+マークと―マークが表示されていた。
+マークの電極は凸形で、―マークの電極は凹形が、四角体の頭から飛び出ている。
電圧も表示されていたが、6V だったように思う。 積層電池というものだが、それは後に知った名称で、当時はまったく知らなかった。
電池であることは、疑いがない。 しばらく眺めていた。 たぶん数分間ぐらいだったように思う。
ペロッ !!!
―――★★★★★★!!!!!!
大ショック !!!
よく生きていたなぁ〜。
このときも、家には誰もいなかった。
(2021年8月14日 記)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
子どもは好奇心のかたまり。
下敷きやセーターの静電気、身近だったなあ。今ではすっかりお目にかかれない。
高橋さんより8才違いの時代、シャツとセーターがくっついてうまく脱げなかった。
思い切ってひっぱると、バチバチッと暗いセーターの中で静電気が光って、シビれた。
ドアノブは、静電気というより、冬の寒さで皮膚と金属が『ネッパる』記憶の方が印象深い。
_
どこから知識をしいれたのか、「これやってみ」といいながら、反応をにやにや楽しんでいる子、いましたねえ。
子どもの世界もなかなか大変です笑。