大井組と大井質店
大井組は、大正年間に現在の南部にあった大夕張炭鉱株式会社に大井鉄平氏が、請負業として入った。飯場をかかえ、坑内の仕事も請け負っていたらしい。
大正10年7月25日新錦坑でガス爆発があった。
死亡者は、大井組飯場所属の組夫千葉某以下5人であった。そのショックから大井組は、坑内の仕事から手を引いた。
その後、土建業として坑外の仕事を請け負っていたが、大正末頃から昭和初期にかけて、北部大夕張開発が進む中、鉄道延長工事に際して、馬鉄、橋梁工事などを請け負った。
通洞(大夕張炭山)に至る鉄道敷設は、急峻な渓谷や崖が続き、困難が予想された。先だって開坑準備に必要な機械、物資を搬入するため、馬車軌道を敷設することとなり、梅原組とともに大井組が請け負った。
昭和2年9月1日に着工し、工事は10月12日通洞に達することで終了した。
同時に進められた鉄道敷設の工事に際して大井組は、一部区間の道床工事と、吉野沢から竜田沢に至る区間及び宝沢の橋梁の基礎工事を行なった。
北部大夕張への鉄道延長工事は、昭和3年11月27日に竣工した。
昭和4年(北部)大夕張が開坑されるのと同時に、三菱礦業所の指定商の一人として、大夕張に移った。
事務所兼自宅の建物を千年町の駅前に構えた。
下は、当時の写真。
ステッキをついた大井鉄平氏と犬を抱いたちか夫人。足下には、大きな犬が寝ているように見える。
夫妻ともに当時明治生まれの50代、人生壮年期の姿だ。
大井鉄平・ちか夫妻には息子がいた。
息子の清一氏は、昭和6年から昭和11年まで鹿島小学校(当時は大夕張尋常高等小学校)で教鞭をとっていた。
20代後半の5年間を、開校間もない小学校で増え続ける児童数に、多忙で充実した日々を送ったことだろう。
このころ、千年町の大井組の自宅兼事務所には、大井家の家族全員が暮らしていた。
鉄平夫妻、清一夫妻とその子どもたち。
清一夫妻には、昭和9年生れの綾子さんを筆頭に、昭和21年までに生れた一男四女の子どもたちがいた。
昭和10年9月、鉄平氏が62歳で亡くなった。
鉄平氏亡き後は清一氏が大井組を引き継ぎ、大久保という人物を外部から迎い入れ事業を継続するが、あまり上手くいかず廃業することになった。
清一氏ともに事業に関わった鉄平氏未亡人のちかさんは、大井組廃業と共に隠居生活となった。
その後、清一氏と夫人のとみさんが大井組の自宅兼事務所(千年町駅前)で質屋を開業する。しかし、資金不足で度々休業する事もあったらしい。
質屋の商売には、蔵が必要となり、手狭になった駅前の家を離れ、大夕張劇場向かいにあった薬屋の中川さんの家を買い取った。そこに引っ越し、大井質店として新たに店を開いた。
昭和30年前後のことと思われるが、はっきりとはわからない。
そうするうち、昭和32年10月に清一氏が死去した。
享年51歳というまだ働き盛りといっていい若さだった。
葬儀は店舗のある自宅でしめやかにとりおこなわれた。
(※夕張信用金庫大夕張出張所の看板が見えるが、昭和32年に開設されたばかり。のちに『毎日新聞販売店』になるこの一画を貸していたという)
大井質店は、清一氏亡き後、夫人のとみさんが中心になり、商売を継続する。
「男手がないと屋根の雪おろしなどの力仕事をする人がいないと困る」
と、鈴木良三氏と結婚した長女の綾子さん(昭和9年生れ)が家族で一緒に住むことになった。
大井質店は、昭和36年に鈴木良三・綾子夫妻の間に娘の美佐子さんが誕生してからは、女姓を中心に四世代の大所帯だったという。
大井質店は、大きな蔵のある商店として千年町商店街の中で存在感を示した。
大井質店は、本業の質店の他に、洋品店と新聞販売を生業とした。
平成9年に撮影された大井質店の写真がある。解体まぢかではあったが、その姿は残されていた。
色枠で示したところがそれぞれの商店の入り口だったという。
大井とみさんが、質屋と洋品販売(質流れ品も販売)、鈴木良三氏が、毎日新聞販売所を営み、綾子さんが、新聞販売と質店の両方を手伝った。
綾子さん夫婦は、二人三脚で新聞配達に、集金にと、大夕張の街中を駆け回った。
娘の美佐子さんも、祖母とみさんが質屋で行なっていたパチンコの景品交換の窓口に立つなど、家族総出で忙しく働いていたという。
そんな中、昭和48年(1973年)三菱大夕張炭鉱の閉山が提案される。
大夕張の商店街も炭労と共に地域の中で反対運動を行なうが願いは届かず、7月に閉山となった。
美佐子さんが、その年の春、鹿島中学校に入学したが、当初6学級だった学年が、夏休み後には、学年編成替えで3学級に、年度末には2学級になるというほど住民の転出が相次いだ。
閉山に伴い、この先をどうするのか大井家の大人達は話し合いをしていた。
鉄平氏とともに創生期の大夕張に入ったちかさんは、大夕張の閉山を知ることなく、前年の昭和47年11月に84歳で亡くなっていた。
千年町駅近くの妙法寺(鍋谷住職)で葬儀がおこなわれた。
住民が激減した街に、商売の先を見い出すことができなかった。
苦渋の決断をするしかなかった。
その年の夏には宝町に住んでいた綾子さんの妹夫婦が、神奈川へ引っ越した。
その後を追うように、秋には鈴木家4人(両親と娘、息子)が東京に引っ越した。
残ったとみさんと末娘の路子さんの二人は、南部へ引っ越し、2人暮らしを始めることになった。
こうして、昭和の初めに大夕張に入り、町とともに生き、苦楽を共にしてきた大井家の家族も、全員大夕張を去り、散り散りに暮らすことになったのである。
南部に移りすんだとみさんだったが、その後、路子さんの結婚に伴い、昭和50年代、札幌にいる長男力(りき)さん家族の元へ行くことになった。
孫娘の美佐子さんは、祖母とみさんについて、
「晩年になってから生活環境が大きく変化し、苦労したかとは思いますが、持ち前の粘り強さと強気な性格で乗り切っていたのだと思います」
と語る。
炭鉱の町で商売に生き抜いた大正女の気概とたくましさを感じさせる人生だった。
そんなとみさんも、平成4年6月札幌の病院にて、享年80歳で亡くなった。
家族が去ったあと、大夕張に大井質店の建物は残った。
千年町駅前の大井組だった建物は、その後『河野歯科医院』となった。閉山のあとも大井質店の建物とともに、平成9年(1997年)に住民が退去する最後の時まで大夕張に存在した。
開発から終焉までの70年に渡る地域の歴史の中で、二つの建物はその栄枯盛衰を最後まで見届けた。
千年町駅そばにあった旧大井組事務所の建物。
※以上のお話は鈴木美佐子(現姓福山)さんからうかがったこと(含写真資料)を中心にまとめたものです。
”大井組”というワードで検索窓に打ち込むと、昭和初期の北部大夕張に関わった大井組の様子がわかります。