青函連絡船 船室にて
2022-07-08
23731
親たちの世代は『内地』と呼んでいた本州。
昭和30年代、父の故郷が栃木だったため、5才頃、初めて青函連絡船に乗って本州にいった。
青函トンネルもなく、飛行機も一般的でなかった時代、船に初めて乗った印象は強烈で、甲板から海を見ていると吸い込まれていくような、えもいわれぬ不気味な恐怖のようなものを感じた。
当然、鹿島中学校の修学旅行も、高校の修学旅行も青函連絡船で津軽海峡を渡った。
昭和45年(1970年)の秋。
青函連絡船の客室の中。
だれがどういう経緯で撮影した写真か覚えていない。
修学旅行に付き添いのカメラマンとかではなく、友人がとってくれて、修学旅行のあと渡された写真だと思われる。
だれもカメラを気にしていない。
自分を写してくれているが、誰と話をしていたのかも覚えていない。
とにかく、函館から青森に着くまで4時間。
時間を持て余した。
出港してしばらくすると左手に下北半島が見えてきて、何も知らない中学生(自分のこと)は、
「お、陸地が見えてきた!もう少しだ!」
などと、興奮してはしゃいだが、実はそこから長い。
陸地が見えたなんてはしゃいだことも忘れたころ、ようやく青森に到着した。
その間、友達と甲板に出て話をしたり、船室でトランプをしたり、雑魚寝などして時間をつぶすしかなかった。
おそらく引率で疲れてうたた寝している、3年E 組の「たっちゃん」こと、佐々木竜也先生の寝顔が印象に残る写真でもある。