グミとグズベリ| 高橋正朝 #118
私が、鹿島東小学校の4年生の6月下旬の頃、下校途中、私と他の遊び仲間2人でもって道草を食った。
その場所は、竜田沢と旭沢の中間ぐらいの、鉄道の山側の野原だった。
目的は何もない。
遊び仲間は、全員、明石町に住んでいたが、私は番外地に住んでいて、2人は、炭坑住宅に住んでおり、しかも同級生ではなかったので、今となっては名前は思い出せない。
その野原には、背の低い雑木はあるものの、殆ど野草だった。
偶然、その野原に、グミの実がなっているのを見つけた。
初めて見たグミだった。
遊び仲間の1人の家には、グミがあったようで、『 これは美味いんだぞ 』と言いながら、1粒摘んで口に入れた。
チョッピリ酸味があった。 若干の渋味もあった。 酸味と甘味と渋味が混和し、果汁が多く、なかなかうまかった。
少し離れた場所にグスベリがあった。 この時点では実はまだ小さいが、すでにキレイな黄緑の玉になっていた。
私の幼年時代、家の前の庭というか、家庭菜園モドキの畑の端に、グスベリの木が数本植えてあった。 結構、トゲがあったのを記憶している。
グスベリが、黄緑から赤紫に部分的に変色して熟してくると、酸味に甘味が加わり、これもなかなかうまい。
母親には、黄緑のグスベリを食べるとお腹をこわすからと言われ、食べないように言われていた。
しかし、熟しなくても、玉が大きくなって美しい黄緑になってくると、色と丸い形に惹かれ、親の目を盗んではついつい摘んで口に入れていた。 当然酸っぱいのだが、十数個の実を食べただけでは、お腹をこわずことはなかった。
この我が家の前の畑にあったグスベリは、私が幼稚園児のとき、父親が伐採して廃棄してしまった。 その理由は知らないが、私が、未熟の若い実を食べるのを見て、伐採した可能性がある。
このグミとグスベリがあった野原は、その時点では雑草が茂っていたが、以前は、畑だったのではないかと思わせる雰囲気があった。
戦中、もしくは戦後、誰かが勝手に荒れ地を開墾し、畑にしたのかもしれないと、幼い少年たちは語り合った。
やがて、線路や道路の整備、竜田沢の埋立工事などで、山側を削るため、畑は放擲され、それでまた荒れ地に戻ったのではなかろうか。 しかし、畑の端に植えたグミとグスベリは残った。 この想像は、案外、当たっているように、今でも思う。
植物の生命力は凄まじく、私が、台湾新幹線工事で台湾に行ったとき、その数年前に起きた地震で、崩落した山は、地肌が見えていたものが、3年後に台湾を離れる時点では、遠目からだが、植物に覆われていた。 雨が降り、気温が高ければ、植物の生育には適している。
前回、イチゴのことで投稿したら、小林光志さんが、熊いちごの名称についてコメントしていました。 ネットでチェックしたら、ちゃんと、熊いちごの名称もあるんですね。
バンコクのショッピングモールに入っている高級スーパーでは、たま〜に、日本産のイチゴが並ぶ。
バカ高いので、まだ1度も食していない。 イチゴだけでなく、ブドウ、サクランボ、モモ、柿など、についても日本産はバカ高い。
(2022年11月12日 記)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
自分の中では、カリンズと並んで身近だったグズベリ。
よく食べていたのは、みなさんと同じです。
畑といえば、空き地を始め山の斜面も開墾の後が残っていた。
近所で話して、場所を分けて菜園などもやっていた。
あらためて土地に所有者がいることを意識したのは大夕張を離れてからだった。
縦についた縞が特徴的で、今でも家や駐車場の生垣などで目にしています。
この2丁目3番地でも『グズベリ』で検索すると何人かの方が書いています。
記憶に残る身近な植物でした。
https://ooyubari.com/?s=%E3%82%B0%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AA