スモモ|高橋正朝 #119
我々の年代では、プラムのことをスモモと呼んでいた。
プラムというちょっと気取った呼称は、東京にでてから、八百屋やスーパーの売場の品書きで知った。
北海道の今は、スモモのことをどう呼んでいるのだろうか。 若い世代はプラムと言い、我々の年代を含んだ老人は、相変わらずスモモと呼んでいるような気がするが ••••••。
このスモモは、私が、鹿島東小学校の2年生の初夏のころ、近所の誰かからのおすそ分けを食したのが最初だった。 酸味があり、すこぶる気にいった。
初夏のころから夏ミカンが出回る。
それほど頻繁ではないが、我が家では、この酸っぱい夏ミカンを時どき食べていた。 その夏ミカンに比して、スモモを食する機会は大変少なかった。
鹿島東小学校4年生の、まだまだ夏休みには入ってなかったが、初夏と言ってもいいある日曜日、私を含んだ少年4〜5人が、桜ヶ丘のほうまで行った。
リーダーは、5歳年長の、苗字がKという中学生。 他は10歳前後である。
全員、桜ヶ丘へ行くルートは知らなかった。
というか、そもそもは、当日、桜ヶ丘へ行く気などなかったのだ。 それが、何で、桜ヶ丘へ行くことになったのか、その経緯は不明だ。 それに、4〜5人で行ったと書いたが、全員番外地に住んでいたのは確かだが、それが、誰々だったか、記憶がボヤけてしまっている。
しかも、桜ヶ丘へたどり着いたルートまで記憶にない。 三弦橋ができたころなので、そこを渡ったものなのか、開拓のほうをまわって行ったものなのか、全く記憶してない。
かなりの遠距離だが、学校の勉強などしない、元気いっぱいの少年たちには苦ではなかった。
ただ、桜ヶ丘のエリアにはいってから、線路が敷いてあった箇所を見つけ、そこを歩いて行ったのは記憶している。
その線路を歩いて行ったら、やがて線路脇の雑木や草が生い茂っている中に、廃屋があるのを見つけた。 以前、入植した人が離農した廃屋であろうことは、まだ少年である我々にも推察できた。
皆、少年特有の好奇心が旺盛だから、早速、廃屋の中を探検。
とは言っても、狭い家だし、電気があるわけでなし、懐中電灯なんて誰も持ってないので、足を踏み入れ、割れた窓ガラスから射し込む陽の明かりを頼りに、腐ちた床板を踏抜かないように注意して歩いただけだから、廃屋の探検時間は、せいぜい10分間ぐらいのものだった。
外に出、廃屋の反対側の敷地にまわってみたら、そこに数本の木があった。 廃屋の周りは、雑木や背の高い草が生い茂っていたから、直ぐには気づかなかったが、その木には、スモモが生っていた。 採る者がいなかったせいで、かなりの量が枝にぶら下がっていた。
各自、さっそく上着を脱いで臨時の風呂敷にし、採ったスモモをそれに入れ、家に持ち帰った。
この帰途のルートも覚えていない。 情けないアタマだなァ ••••••。
スモモが生っている木を見たのは、そのときが初めてだった。 期待してなかったものを偶然手に入れたわけだが、しかし、そのスモモの木の所有者は、いったい誰だったのか、今ではチョッピリ気になる ••••••。
腐ちた廃屋からして、誰も住んでいないのは明らかだったが、法的な権利の判断はどうなるのだろう。 たとえ、落ちていたものを拾って自分のものにしたとしても、ネコババの罪になるわけだしなァ ••••••。
でも、もう時効だよなァ ••••••。
(2022年11月19日 記)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
スモモは木になる小さな桃に似た実で、大夕張ではあまり見なかった。
プラムは、大夕張を出てから、店頭で売られる果物として初めて見た。
仁木に果物狩りで行って、プラムは木になる実なのだということを知った。
だから、スモモとプラムは自分の頭の中では、まったく別物として存在していたのだった。
スモモ=プラムは、同じだったことを初めて知った。
大夕張、桜ヶ丘の農家(跡)に、スモモ(プラム)の木があったとは。