昭和3年の大夕張 回顧随想(小林清次先生の追想)より
昭和3年(1928年)秋も深まる10月に鹿島小学校(当時は尋常小学校)は開校した。
山史などでふり返ってみると、前年(昭和2年)に馬車鉄道が開通し、物資や資材が搬入が可能となり、続いて、南大夕張-北部大夕張間の渓谷にかかる各橋梁の架設工事が進む中、翌昭和3年6月、三菱大夕張礦業所が小学校の校舎建築に取りかかり、9月に校舎が完成した。
鉄道橋の完成、道床工事が完了をみたのは、その年の10月25日のことだった。そしてあわただしく蒸気機関車が10月31日から運転開始となった。
そんな中、開校当時の鹿島小学校は、2学級75名の在籍でスタートし、佐藤勇次初代校長と、小林清次先生の二人が任命されたという。
戦後、小林先生は、分離に伴って児童らとともに鹿島東小学校に移動した。
鹿島東小学校に移動して間もない昭和28年、鹿島小学校25周年を機に、大夕張草創期の開校当時をふり返って書いた文章である。
小林先生は、赴任当時20代だったとしても、おそらく、この文章を書かれた頃は、50歳前後だったろう。
時代がどんなに変われど変わらぬ永遠の想い。
特に最後の言葉は60代の今の自分にとっても心に響く言葉である。
『幾多の生命が潜む』その場所に足を運び、静寂の中で湧き出る己の思いを感じてみたくなった・・・。
『 回 顧 随 想 』 小林清次
永いようで短く、短いようで長い二十五年間。
その始め,学校長と二人きりで建築列車に便乗 。
「バラス」(注※砕石、砂利)の上に載せられた梱包にしがみつき、ガタン ガタン と揺られて、発破作業中の『函岩』(注※のちの大夕張ダム付近)付近で、もしやと思うくらい肝を冷やしながら、北部大夕張に運ばれた。
何の因果でこの山奥にと思いながらも、この地に今もなお、朝夕、夕張岳を眺めている。
今更
「人事憂楽有あり、山光古今なし」
の感にうたれる。
大夕張駅も、当時、鋸目(注※ノコギリの刃の跡)のある板で、仮に作られたレール終点兼、糧抹倉庫 の地点に、山の親父がまかり出て、ガリガリ と板壁をひっかく音に、2名(和井田 土田)の係員をふるえあがらせたという、翌日に着任した。
本校も河原のようなところに、ポツンと人待ち顔に立っていた。
開校準備の手休めにと、校庭をそぞろ歩きしている自分の姿を見つけ
「学校の先生がいる」
と、数ヶ月間学校に飢えた子らが数人駆け寄り、日焼けした面に瞳をかがやかせ、それでも遠慮がちに
「何時から学校が始まるの」
といった頭の大きい年嵩の子供。
その子は戦死したとか。
* * *
故郷をしたうは、誰しもが味わう感慨。
それはその地に自己の生命が 幼き友達に、住家に、山川草木に放たれ植え付けられているからであり、その帰らぬ生命の執着がそうさせるのであろう。
で、やがて故郷となるべき現在の郷土に執着を持つことができると、それは自己の命生を見出すことになり、そのあらわれが郷土愛、隣人愛という姿になる。
* * *
本校開校25周年、幾多の生命が、ここに潜んでいると思うと、何かしら絶ちがたいものがある。
そして
「 人生は短き日なり、されど働く日なり 」
と誰かの言葉が自分に言い聞かせているような気がする。
(昭和28年発行 開校25周年学校概要より)
下は昭和6年の絵葉書の大夕張駅。白黒写真に着色したもの。