山神社ヨリ富士見町社宅地帯ヲ眺ム (其ノ一)
絵葉書の宛先の面には、昭和15年8月15日の消印がある。
タイトル通り、1940年頃の大夕張山神社から富士見町方面を俯瞰した写真。
タイトルに(其ノ一)とつけた。
これは絵葉書の本来のタイトルにはない。
この『山神社ヨリ富士見町社宅地帯ヲ眺ム』の絵葉書の記事を(其ノ一)から(其ノ三)まで次のようにわけた。
(其ノ一)は、富士見方面をうつしたこの写真。
(其ノ二)は、文面の紹介。
(其ノ三)は、この写真をカラー化し、彩色を施したもの。
以上、三回に分けて掲載する。
この写真も、20年くらい前に古書店から入手したものだが、初めて見たとき、ずいぶん山が深く感じたものだった。
写真の中央やや左寄りには、単身者の寮、啓心寮が見えている。
そしてそのやや左上に、木の板塀で囲まれ、広い庭をもつ倶楽部の施設もある。
これは、炭鉱があった当時の山神社から見た富士見町方面のおなじみの構図だ。
啓心寮は3丁目だったが、その向こうの4丁目から6丁目にかけてまだ住宅が少ないようだ。
富士見町の一番北側、6丁目と礦業所の間に沢があり、その崖の坂道に沿って並木があった。
写真では、ちょうど住宅地との境目のように木々が並んでいるところ。
そのむこうが礦業所の事務所や進発所などの施設がある工場地帯だった。それも木に隠れてあまり見通すことができない。礦業所と住宅地を仕切るカーテンのようにも見える。
住宅が少ないことと、木々の鬱蒼とした繁りが、山深く感じさせた理由なのだろう。
それでも地区の人口は急増中で、鹿島小学校(当時は大夕張尋常高等小学校)の在籍も1500人を越えていた。人口も昭和18年には、南部も合わせて一万を超えていた。
山神社下のやや低い位置から撮影されたようにも見える。そのことも関係あるのだろうか。
立派な灯籠が立つ手前の坂道は、大夕張山神社への参道のようだ。
昭和13年から大夕張に暮らしていた祖父母一家。手を引かれ、幼かった母とその弟妹たちが往来したこともあるだろう。その姿を重ね、その日常はどんなものだったのか想像してみたりする。
昭和20年代、富士見町・礦業所方面の全景写真