山神社ヨリ富士見町社宅地帯ヲ眺ム (其ノ二)
古書店で入手した絵葉書には、文面を墨で消したりしているものもあるが、この絵葉書には、幸いなことに、当時の文章がそのまま残っていた。
日常的な何気ない文章に、当時の大夕張での暮らしを感じる。
昭和15年(1940年)8月の葉書。 今から83年前の大夕張の生活。
樺太名好郡 塔路町 三菱塔路鉱業炭鉱社宅宛。
昼はだいぶ暑くなりました。
昨日の朝、夜は非常に寒く二,三枚シャツを着たくらいです。
そちらはどうですか。
いよいよ明日からお盆に入ります。
盆踊りもあるそうですが、但し9時までだろうです。
去年のことが思い出されます。
皆様にはお変わりありませんか。
帰りはどうぞ大夕張に寄ってくださいねと、母が言っていました。
ではお体を大切に、さようなら。
当時同じ三菱系列の炭坑だった塔路炭坑にいる友人にあてた手紙だとして・・・。
時候の挨拶から始まる。
これまで暮らした内地より、夏が涼しい大夕張の生活。
それでも、8月のこのごろは、日中の気温が温かく感じられ、汗ばむほどの暑さだ。
しかし、朝や晩の冷え込みが厳しく、昨日などは、夜、布団に入っても寒さが身体にこたえ、肌着のシャツを二、三枚重ねて着込んで寝たほどだった。
そちら樺太は、北海道のさらに北にある。
大夕張よりも、ずっと寒いことだろう。
この葉書を書いているのは、8月12日のこと。
こちらは明日からお盆にはいる。
初めて迎える大夕張でのお盆。
夜には盆踊りがあると聞いた。どれだけ盛大なものになるのか楽しみだ。
昨年、内地で迎えたお盆は、それはにぎやかで、夜通し、みんなで楽しんだ。
大夕張の盆踊りは、会社の都合で夜の9時には終いになるという。ちょっと残念だ。
君と一緒に遊んだ盆踊りの夜を思い出すと、楽しかった出来事が思い出されて、とても懐かしく感じる。
今度、内地に帰る時には、家族の皆さんとぜひ大夕張にも寄っていってください。
うちの母もぜひにと言ってましたから。
以上。
手紙を読みながら、勝手に想像、妄想したものを書かせていただいた。
昔も、今もなんら変わらない人間のくらしがあったのだなあ、と思う。
ついでに切手にも、目がとまったので調べてみた。
昭和15年ということもあり、切手は「大日本帝国郵便」と印刷された2銭の普通切手。
肖像画は乃木希典大将。
いうまでもなく時代を象徴する東郷平八郎と並ぶ「軍神」のうちの一人。
「乃木2銭切手」は、昭和12年(1937年)5月10日発行、昭和20年の終戦後まで流通し、昭和22年8月31日限りで使用禁止になった。
奇しくもこの葉書の消印がある五年後の昭和20年夏、『樺太の悲劇』が始まった。
すでに炭鉱は動いていなかったようだが、当地での体験談が、ブログや記事で語られているので、興味がある方はそちらを探して読んでみると良いでしょう。
下は、「三菱鉱業社史」から、一応参考までに。
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※塔路炭坑
昭和8年に三菱鉱業が開発を進め、10年、南樺太炭礦鉄道株式会社に譲渡。
以後、三菱鉱業関係各炭鉱の中でも随一の出炭量を誇った。
しかし、戦況の悪化にともなって本土に石炭を運ぶ輸送船舶の不足が顕著となり、昭和19年に、軍需大臣より操業休止の指令を受け、操業を休止した。
そのため鉱員などの労働力は、三菱鉱業の九州の各炭鉱に振り分けられた。
終戦時、塔路港の貯炭場には、炭坑夫たちが命をかけて掘り出した石炭が、山となって野積みされていたという。
裏面は、こちら