鹿島小学校 校歌 メロディ譜 その他あれこれ
上の音源は、前奏、伴奏を省略したメロディ部分のみ。
鹿島小学校の校歌については、鹿島小学校発行の『鹿島のあゆみ』には次のようにかかれている。
昭和15年12月1日に制定されたと校歴に記されている。
加勢蔵太郎作詞、工藤富次郎作曲となっているが、『鹿島小学校40周年誌(昭和43年発行)』をみると、作曲が千葉日出城になっている。
工藤富次郎作曲のものを、後日、千葉日出城が作曲しなおしたものなのか、不明である。
原譜もなく、従って、40周年記念誌に記録されているものを、真とする他には手がかりがない。
(制定)昭和15年12月1日
(作詞)加勢蔵太郎
(作曲)千葉日出城
太古の森を きりひらき
うもるる宝 かえさんと
力よ ほまれよ 血のひびき
きたわんかいな ああ 大夕張
銀雪はゆる 夕張岳
源しるし 夕張川
のぞみよ さかえよ 学びの舎
みがかん心 ああ 大夕張
※ 昭和28年(25周年記念)の学校概要にも、校歌の歌詞が載っていて、作曲者はすでに千葉日出城となっている。
千葉日出城は、明治36年(1903年)生まれ、昭和10年代から師範学校、戦後も教育大学で教鞭をとり、道内の音楽教育の指導的な役割を担い、道内の小学校、中学校の多くの校歌にも、その名を留めている。
一方、作詞者の加勢蔵太郎(1884年-1951年)は、明治17年生れ。視学官や旧制札幌一中や二中の校長を務め、師範学校の校歌の作詞などもした人物で、千葉とは20歳程の年の差がある。
工藤富次郎(1882年-1953年)と加勢は、ほぼ同世代であり、工藤も、札幌北海高等女学校(現札幌大谷高)、札幌師範学校、藤女子高校と音楽教育に力を注いだ人物である。
この加勢と千葉が作詞・作曲した校歌は、他にも『浦河町立浦河小学校』『白老町立虎杖小学校』などがあった。それぞれ昭和15年、昭和18年制定とされ、鹿島小学校の校歌制定と同時期のようだ。
千葉が鹿島小学校の校歌作曲にあたって、工藤富次郎もまだ存命の頃、同じ音楽教育の世界に身を置き、年齢的には大先輩にあたるその工藤から仕事を引き継いだのか、学校から改定を依頼されたのか、どんな経緯を辿ったのかわからないが、曲を改定するにあたっては、確たる理由と依頼があったのだろう。
ところで、上の25周年記念に発行された『28年学校概要』の歌詞は、「ちのひびき」の部分が、『地のひびき』となっている。
『40周年記念誌』以降『閉校記念誌』まで、『鹿島のあゆみ』を含めて、自分が目にした鹿島小学校の記念誌にはすべて『血のひびき』で掲載されている。
zinyさんの『五月晴れの鹿島を訪ねて 』の話の中に、卒業文集で「地のひびき」が使用されていたという話題が出てくる。こちらの方がしっくりくるという感想をもつ方もいるだろう。
『地のひびき』という表記も使われたことがあるということは、『昭和28年学校概要』の誤植ではないようだ。
加勢蔵太郎は昭和26年に亡くなっている。加勢が作詞した当初の歌詞は、『地のひびき』であったのだろう。
その後、何らかの理由で、『血のひびき』となったということだろうか。
以上は、鹿島小学校の校歌を巡る謎である。
思えば小学校の頃、薄暗く、夏でも肌寒い体育館で、朝礼の時には、歌は苦手で小さな声で歌う子どもだった。
なにせ歌詞を覚えられない。体育館に掲げられた歌詞をみないと歌えなかった。 今でも空で歌を歌うことはできない。歌詞は覚えられなかったが、その分、作曲者名と作詞者名は目に焼き付き記憶に残った。
そんな自分が、卒業後半世紀以上経ち、すでに閉校になってからでさえ20数年経ち、こうして校歌の歌詞を打ち込んで、校歌についてあれこれ思いを巡らせている。
それほど長いつき合いになるなんて、あの時の自分には、想像もできなかったことだろう。(笑)