共栄橋
先日の高橋さんの「続大夕張つれづれ#150『蒲の穂』の中に、明石町から、開拓・桜ヶ丘の方に向かう時、通った坂道と揺れる吊橋の話があった。明石町と開拓を結ぶ白銀橋ができる前のことである。
それによると、この揺れる吊り橋は、明石町側の坂道を下り、吊り橋を渡り、そして坂道を上って小林さんの畑のそばの道にたどりついたという。(小林さんの家は、地図を見ると開拓の中でも川に近い一番明石町寄りにあった)
そして、その坂道は、常盤町から明石町、常盤町から千年町に行く坂道ぐらいの勾配があったという。
まさにこの写真のイメージだ。
だから、『雨の日に、開拓から小学校や中学校に通うのは大変だったのは、容易に想像がつく』と高橋さんが書いているのも頷ける。
この明石町から開拓に向かう吊橋を渡った話は、戦中世代の私の叔父や叔母の話の中にもよく出てくる。
もう何をしに言ったのかよく覚えていないようだが、親に連れられて農家に野菜や作物などの食糧を買い出しの為に出かけたのだろうか。柵もなく雨が降るとよく滑って、「おっかなかった」と枕詞が必ずつく。
高橋さんの話を読んで、夕張シューパロダムふるさと誌「しろがね」に掲載されているこの写真をすぐに思い出した。
昭和34年の共栄橋として説明されている。
『桜ヶ丘 3号つり橋』としてのせているつり橋は、桜ヶ丘と鉄道の『農場前臨時乗降場』を結ぶつり橋だったが、この橋は、開拓と明石町を結んだつり橋だったのだろう。
写真掲載の同誌には、昭和25年秋、入植12戸。翌26年春鹿島開拓団設立して開墾開始。秋には12戸全員でつり橋を建設し、共栄橋と命名したとある。
開拓に入った12戸の農家が、入植し息つく間もなくつり橋を建設、開墾当初のその労苦たるや如何ばかりであったろうか。