共栄橋の建設の頃

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 先日、掲載した明石町と開拓を結んだ「共栄橋」の話題の続き。

 

 ふるさと誌「しろがね」(平成9年発行)には、開拓に入った方々の当時の思い出が寄せられている。

 その中に、田坂啓一さんという方が、開拓当初、住んでいた大夕張から開拓の畑に向かう様子や、共栄橋を建設するまでの思い出を具体的に書かれている。

 当時の様子がわかる貴重な文章なので、抜粋して紹介します。

  

 

 

 今、思い出すと、私たちは昭和26年4月1日に、その当時務めていた大夕張官行の営林署住宅をあとにして、荒れ地の開拓に入りました。

 

 父親達は50歳を過ぎていましたし、荒れ地を開拓するのは、とても無理でしたので、まだ年若かった長男の私がすべて責任をとって農家をすることになったのでした。

 

 農作業をするにも、まだ大夕張に住んでいた私は、明石町の駅長に許可をもらって、大夕張から明石町まで線路脇を歩いて帰り、さらにまた私の農地まで荒れ道を歩かなければなりませんでした。

 

 その途中には、明石町と開拓を結ぶ大きな川がありました。

 

 橋もかかっていなかったその当時、石炭で汚れた黒い川を、大きな石で足場に板を並べ、即席の橋を作ったのでした。

  

 荒れ地畑の家にたどり着くまで、何と2時間余りでした。

 

 昭和26年7月、農馬を手に入れ、生活の糧にするために、炭を焼くことになりました。

 

 その頃は、開拓の数軒が炭を焼き、馬で川を渡り、町場に売りに行っていました。

  

 人が川を渡るために集落全員の協力によって、ワイヤの吊り橋が完成したのでした。

 

 更に、農道も、集落の人たちによって、ツルハシやスコップを持ち寄り、雪が降る中も、仲間と共に苦労しながら、馬を通すほどの道を作ったのでした。

 

(後略)

夕張シューパロダムふるさと誌「しろがね」(平成9年発行) 「開拓の思い出」 より

  


あらかると

 

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