開拓橋建設と共栄橋の位置
ふるさと誌「しろがね」から。
以前掲載の「共栄橋」を渡る人物と同じ、服装や雰囲気から同じ日に撮影された写真のように見える。
Tokio Tanikawaさんのお父様が写っているというコメントがFB版であった。写る人物は谷川さんらしい。
写真には、「白銀橋の建設作業」(昭和34年頃)というキャプションがつく。
ところでこの記事のタイトルは「開拓橋 」となっている。
同誌の年表にも「昭和34年鹿島白銀橋完成」と書かれているが、当時の視点でみると「開拓橋」だろう。
いつから白銀橋と呼ぶようになったのか。
調べてみると、昭和36年(1966年)3月に「開拓橋」から「白銀橋」に呼称が変更されたということだ。
いつから「白銀橋」と自分は呼ぶようになったのか。以下、いつものことながら個人的な視点で綴ってみる。
完成間もない頃、父と出かけた橋の手前で撮影した一枚の写真がある。(「ふるさと大夕張1丁目1番地」には載っている写真で「2丁目3番地」の方には、まだ転載していない)
当時の印象は、開拓に向かう時に渡る橋=「開拓橋」だった。
橋の銘板で確認したりしたわけではなくあくまでもそう呼んでいた記憶があるということだ。
時が経ち・・・
自分が中学生になったころ、(昭和43年から44年にかけて)、住所に郵便番号が割り振られ、大夕張の町の名は「鹿島◯◯町」になった。
「官行」と呼んでいたところは「鹿島北栄町」、「泉町」は「鹿島錦町」の一部となった。
自分が住む富士見町は「鹿島富士見町」となった。
手紙に自分の住所を書くときには、変わったような変わらないような、なんだかちょっとヘンな感じがしながらも、何かが変わったんだなと感じる・・・そんな程度だった。
一方、「開拓」は、開拓団由来の地名から古の砂金採集の由来をうけた川の名から「鹿島白金」となった。
そして同じ頃、あの「白銀橋の落橋事故」が起きた。新聞やテレビで大々的に報道された。
おそらく「開拓橋」の名前に上書きされて、「しろがね」が頭の中にすりこまれたのはそんな頃のことだったにちがいない。
当時、開拓に住んでいた方、特に開拓に入った第一世代の方々は、地名変更についてどう感じていたのだろうか。気になるところでもあり聞いてみたくもある。
今も使われている「白銀橋」の名称。
「しろがね」の音に橋の名に「白銀」、地域の名に「白金」の漢字が当てられた。「白金」は川や沢の名称にも使われているが、橋の名称の「白銀」がどこから来たのだろうか。
白金地区の地図をみると、ペンケモユーパロ川上流、白金川にかかる橋に白金橋がある。
昭和36年当時すでに「白金橋」あったので、プラチナつながりで「白銀橋」としたのだろうか・・・しかし、川や沢は、「しろがね」ではなく「しらきん」と読んでいたような・・・ややこしい。
などと、いろいろ想像を巡らせてみることも楽しいが、これまで、そのことについて目にしたり聞いたりしたことはない。
ところで、明石町番外地に住んでいた高橋さんの「大夕張つれづれ」「続大夕張つれづれ」に何度か登場する「開拓へ向かう橋」(共栄橋)の位置がずっと気になっていた。
とくに、共栄橋と開拓橋(白銀橋)の位置関係。近くにあったのか、離れた場所にあったのか。
今回、昭和30年の航空写真で探してみることにした。国土地理院の空中写真サービスを利用した。
共栄橋は、すぐに見つかった。
そして、開拓橋(白銀橋)の位置だが、こちらは、ダムができる前で地形が変わる以前の写真なので、場所を確認するのに思いのほか手間取った。
開拓橋(白銀橋)の位置に赤い線を書き込んである。
(ちなみに現在の眺望公園は左下の位置。明石町の街の写真下側になる。)
現在も旧白銀橋としてダム湖の中に沈んでいて水位によって、頭を出す時もあるらしい。
その赤い線と逆ハの字を描くように、シューパロ川にかかる橋の姿が見える。
これが、共栄橋だろう。
開拓・白金に行く道。
明石町駅から番外地の住宅前を通り過ぎ、シューパロ川の方にやや下って行く道は、自分だけでなく、みなさんよく覚えのある道だ。
そこから道なりに右にいくと開拓橋(白銀橋)だったが、実は、左に共栄橋に至る道があったのだった。
思えば橋を架けるというこうことは、それなりに理由のある場所にかけるということなのだろう。開拓への入り口に繋がる明石町側の道路は一つだったのだ。
高橋さんの話や、叔父や叔母の話に出て来た「明石町と開拓をつなぐ吊橋」が、かけられた場所、自分より年上の方にはとっくにご存じだったかもしれない。自分は、今回ようやく知ることができたのだった。
最後に、昭和52年との対比ができるよう白金地区の航空写真のページへのリンクを貼って置きます。