常盤町8丁目8番地住宅の前で

90893

春先。

雪が溶けて、土が顔を出し、草花が芽吹く前のいっとき、雪の下で寝ていた茶色い下草が顔を出す。

冬と春の間にも、こんな短い季節があった。

あたたかい春の日差しに誘われて、写真をとることになったのだろうか。

 

常盤町8丁目8番地、菅原正広さんのご家族が住んでいた家の前である。

  

1968年頃 春の日差しに眩しそうに。
左手奥の崖の上には千年町の教員ブロックが見える。

  

菅原正広
菅原正広

ピースサインしてるのが自分ですが、

考えてみると、50数年前ですでに写真撮るときピース✌って文化が有ったんですね。

 ピースサインの由来にも諸説あるようだが、アメリカの1960年代の反戦運動の頃から広まっていったという印象がある。

 

 日本では、1971年に井上順(当時は、井上順之と言っていた)が、コニカのコマーシャルやTV番組で使い、爆発的に流行らせたという。

 

 その意味では、菅原さんの家では流行を先取りしていたようだ。

 

 

 写真の髪型は、当時「小さな恋人」で流行ったジミー・オズモンド(カルピスのCMに出ていたオズモンド・ブラザーズの末っ子)に似ていると両親にかわいがられ、服装も女の子の格好をしていたという。

 それは聖心幼稚園入学前まで続いたそうだ。 

 

菅原正広
菅原正広

 向かって左で兄を抱っこしてる女性は多分叔母(母の妹)の友達だったと思います。

 

 女の子のカッコしてたのは、両親がどうしても娘が欲しかったようで、私は4番目ですが、また男か~と。

 

 試しに髪の毛伸ばしてワンピース着せたら、あらめんこいンでないかい?

となったみたいです。

 

 おかげで、お風呂屋さんでは、湯舟からあがるといつも、あんた男の子か~い、めんこい顔してなに余計なもんぶら下げてんのさ?と周りのお母さん達からからかわれてました。

 

 夕張にいる間に結局6番目まで生まれ全員男でしたが、群馬に来てから2人女の子を授かりました。

 執念ですね。

 

 アラフォーの高齢出産で二人共4000グラム超えでした。そんな母は来年卒寿ですが健在です。正に母は強しですね。

 

 

 七人目に念願の女の子を授かり、8人の子どもたちを生み育てたということを聞いた驚いた。

 『執念』とご家族のご苦労には本当に頭が下がる思いがする。

 

 そういえば、私の祖母も11人の子どもを産んだ。

 私の母を筆頭に娘が5人続けて生まれ、どうしても男の子が欲しくて、6番目に男の子が生れた。

 

 そうして昭和6年から昭和25年まで、20年をかけて結局男4人女7人計11人の子どもを産んだ。末子が成人したのは昭和45年のことだ。自分も二人の子どもを育てたが、子育てに要した時間を考えると気が遠くなる。

  

 男の子と女の子が生れる確率は1:1だというが、こればかりは、何人目でその確率が発動するか分からない(笑)

  

 いまではもはや、なかなか聞くことのできない話となった。

  

   

 ところで、大夕張で、「幼い頃、髪型や服装で女の子の格好をしていた」という話は、菅原さん以外の方からも聞いたことがある。

 

 小さいうちは、女の子の方が丈夫で病気になりにくい。

 それで男の子に女の子のかっこうをさせて丈夫に育てる。

 

 そんな護法として、『幼少期の男の子に女の子の格好をさせる』のは、日本では平安時代からある風習であり、昔話にも出てくる話だという。昭和天皇が幼少期このように育てられたというのはけっこう有名な話として出てくる。 

  

 また日本のみならずヨーロッパでも魔除けの習慣の一種としてあった。西洋絵画でドレスを着た王子の姿が描かれた作品を見ることもできる。 

    

 「丈夫に育って欲しい」そんな親の愛情と願いが、その一面にはあったことだろう。

 

 上の地図は、常盤町の白地図を東を上にして、8丁目8番地の位置を示したもの。

 家の周囲はけっこう小さな崖が連続していて高低差があったことがわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

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