明石町集会所での映写会 | 高橋正朝 #159
私が鹿島東小学校の3年生から5年生ぐらいまで、明石町の集会所で、夜間に映写会があった。
大夕張の景気が絶好調の時期である。
夏休みの時期には、集会所前の小さな広場に幕を張り、映画を上映した。
映画を上映すると聞いて、陽が落ちる前から広場に駆けつけた。
映画の内容は、おそらく、教育じみたものだろうと思っていたのだが、案に相違してチャンバラ映画だった。
主演者は、有名な俳優だったが、覚えていない。
有名な俳優だったのに、その名前を覚えていないのはおかしいと突っ込まれそうだが、しかし、事実覚えていない。 映画製作会社の名前も覚えていない。
集会所では、その後もチャンバラ映画を数回上映したが、いずれの内容も出演者もまったく覚えていない。
テレビがまだ各家庭に行き渡ってなく、どこかの家でテレビを買ったときなど、その家にオジャマしてテレビを見せてもらった時代だったから、広場で映画が上映されるとなると、少年少女は、たとえ、教育じみた映画であっても、それを観に行った。
夏休みだけでなく、その前後にも映写会があったが、夜間の夏場だから、結構、蚊に刺された。 私も刺されたが、全然刺されない人もいた。
秋のころ、外での映写会でなく、集会所の中で映画を上映することもあった。 そのうちの一つの内容のアウトラインは記憶にある。
発明が趣味の少年が主人公だった。
子どもの発明だから、発明というよりは、アイデア製品である。
ある日、その少年は、池に落ちた野球のボールを捕り寄せるアイデア製品を作った。 その製品をうまく作ることに成功し、実際に試して成功した。
それは、父親が大事にしていた釣竿を利用したものだった ••••••。
野球のボールは、当時は大変高価なものだった。
我々の三角ベースの野球の遊びても、草藪に入ったボールを探しまわったものだ。
しかし父親の釣竿はもっともっと高価だった ••••••。 この映画のあら筋だけは、今でも記憶している。
これら、明石町の集会所で上映された映画は、千年町や常盤町など、他の場所でも上映しただろうと思う。
2〜3回ぐらいだけだったが、12月には、集会所での上映会には、各自、お菓子が入った紙袋をもらったこともあった。
嬉しかったし楽しかったなァ ••••••。
老人になってからの懐旧だからそう思うのかもしれないが ••••••。
(筆者略歴)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
メール宛先:taka-jp@outlook.com (メール宛先変更になりました)
昭和30年代、白幕を張って映写会のようなものが屋外で行なわれていたというのは、何人かの大夕張の人たちに聞いたことがある。
明石町以外にも、代々木町アパートの間に架けられた巨大スクリーンで映画を見ていた時、会場内放送で呼び出されたことが、内川さんの「父の事故」という話の中に出てくる。
自分の時には少し時代が下がり、集会所というと、そろばんや、習字といった習い事の記憶が強い。
そろそろテレビが一般的になってきたからだろうか。。
それにしても、夏の夜の屋外の映写会は、たとえ蚊やブヨに刺されようが楽しかった。
ほんとうに短くあっという間に過ぎ去っていった夏だから。
「屋外の映写会」というと、宮沢賢治の『雪わたり』の話を思い出す。
森の近くで、四郎とかん子が狐の紺三郎と出会い、『狐の幻燈会』に招待されるシーンは、大夕張の表面が固く凍った雪と寒くしばれる夜を想起させた。
幻燈会、これも思い出の言葉である。