クルミ | 高橋正朝 #161
クルミの名称は、私が小学校の低学年のときには知っていた。
〘 小鳩くるみ 〙という少女が、少女マンガの表紙のモデルになっているのをわりと多く見ていた。
〘 小鳩くるみ 〙の〘 くるみ 〙は、木の実のクルミから名付けられた、当時在席していた幼稚園にちなんだものだということが雑誌に書かれていた。 それで、クルミは木の実だというのは分かっていたが、実物は知らなかった。
鹿島東小学校の3年生のとき、例によって名前も顔も覚えていない明石町の遊び仲間が、番外地にあった私の家の前を通ったとき、彼はポケットからクルミを取り出して見せた。
そのクルミは、濃いベージュというか、黄土色のような色合いで、殻はいかにも硬そうだった。
彼は、私に玄翁を持ってくるように言った。
金床の上にクルミを置き、玄翁で思いきり叩いた。
しかし、玄翁はクルミの殻の芯にうまく当たらず、クルミは滑り落ちたというか、跳ね落ちた。
何回か玄翁を振り下ろし、そのうちクルミの殻を叩き割ることができた。 しかし、手加減せずにクルミに玄翁を振り下ろして叩き割ったものだから、殻を割っただけでなく、中の実まで細かく砕けた。
その砕けたクルミの実を、二人して指にツバをつけて拾い出して口に入れた。 実だけでなく、殻のクズも一緒くたに口に入れた。
結局、3ケのクルミを玄翁で叩き割ったのだが、量が少なく、しかも、実が砕けていたせいもあり、味のことはサッパリわからなかった。
彼は、もう2ケクルミを持っていたが、こうやって指を鍛えるんだと言って、2ケのクルミを掌にいれ、指で2ケのクルミを握り回したり、指の間に挟み込んてゴリゴリと音を立ててクルミを弄んだ。
このときに、クルミの実の実物を初めて見たわけだ。
それから1年か2年後、開拓の山というか、藪が繁っている小高い丘のような所を、他の遊び仲間2人と歩いているとき、クルミが生っている木を見つけた。 そこから、中松さんの家が見えた。
藪の中で生育している木だから、中松さんが育成したわけではなさそうだか、そのクルミを採ろうと言う者はいなかった。
クルミが生っている木は、もう1度見ている。
それは、常盤町から明石町へ行く坂道で、シューパロ川の崖の藪の中にその木があった。
そのときは、1人で坂道を登っていたとき、何気なくシューパロ川のほうを見たときである。 鹿島東小学校の4年だったと思うが、自転車に乗って崖から転げ落ちそうになった場所に近かった。
あのときは、運動神経の鈍い私にしては、珍しく、身体の体重を山側に傾けて自転車ごと倒れて難を逃れた。 そのとき、右太ももが砕石で裂けた。 傷は浅かったのだが、その跡はいまだに残っている。
そこのクルミの木は、シューパロ川の崖の茂みに生っていたので、そのクルミを採ろうと思うことはなかった。
私の大夕張時代は、栗は北海道では生育しなかったが、クルミは、北海道の気候でも生るんだなァと自分の目で見たと同時に、もし私が縄文時代に生きていたら、何とかしてこの貴重な食べ物を採っただろうなァと空想した。
今は、北海道の気候も少し変わり、昔はマズイ米しかできなかったのが、品種の改良もあって、〘 夢ピリカ 〙はタイの日系スーパーでも輸入されたものが日本人の奥さんがたの間で人気を博しているが、さすがに、北海道産のカキやクリなんてものは売られてない。
その2種類は、今は、北海道でもできるのだろうか?
(2023年9月10日 記)
(筆者略歴)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
メール宛先:taka-jp@outlook.com (メール宛先変更になりました)
常盤町のクルミの木
クルミのエピソードに、鹿島東小学校の4年生の頃に、常盤町から明石町へ行く坂道で、シューパロ川の
-
崖の藪の中にクルミ木があったと書かれています。
–
–
小生も常盤町の道路わきにクルミの木があったことを思い出しました。
–
–
高橋さんが気が付いたクルミの木と同じかはわかりませんが、東小学校~明石町への通学路に有りました。
–
その木は暁橋の取付道交差点から明石町に続く常盤橋に向かって平坦な道を約40~50mいった所の道路脇に
–
建っていました。
–
木の下側にシュウパロ川側の炭住が有って段差が数mの崖に近い急斜面だったと記憶しています。
–
–
クルミの木の周りの道路は小学後学年の頃、近くの学童たちがソフトボール等で遊ぶ場所で、この頃
–
自動車はまだ極く少なく、道路周辺で遊んでも交通事故等は皆無だったと思います。
–
–
クルミの実を割って食べたことは何度かあったようですが味は全く記憶にないです。
–
–
常盤町のクルミの木を本サイトの写真から集めてみましたが、木は常盤町が造られてから閉山になっても
–
健やかに道路の脇に立っていたようですね!(添付写真参照)
–
–
高橋さんが小学4年生の頃にクルミの木に気が付いたようですが、その頃の樹形は写真の昭和34年頃
-
のが該当すると思います。
高橋さんは本当にいろんなことを思い出させてくれる。
小鳩くるみ・・・1948年生、4才でデビューだからかなり広い年代の方々に浸透している名前だろう。
自分は、子どもの頃の、うたのお姉さんとしてのイメージが強い。
クルミと栗。
栗は大夕張にはない、というのがその頃の記憶。(本当かどうかわからない)
新聞紙に包まれた栗を購買会で買って、(ひょっとしたら誰かが採ってきたものかもしれない)家でふかして食べたこともあった。当時のことだから、ときどき爪楊枝でつついて食べていると中から中を喰っている幼虫のようなものが出て来た。それは普通のことだった。
その頃食べた栗は、今よく見る中国産の小さくて味の濃い「甘栗」ではなく、大きくてほくほくした食感だった。
クルミは、大夕張にある、というのがその頃の記憶。
高橋さんが言っているように、指に挟んでカリカリやっている仲間がいた。
今思えばそういう子に限って、ガキ大将のようなたくましい存在の子だった。
自分にとってクルミは、木を見つけることもできず、手の届かない木の実だった。
だから、それを見るととても羨ましい気がしたものだった。
今、公園を散歩していると、あたりまえのように、クルミや栗が落ちているのを見かける。
かつてはクルミやドングリを拾って自分の子どもと一緒に秋の工作を楽しんだこともあった。
そんな時、大夕張でのクルミや栗の思い出がふと蘇る。