月: 2023年8月

2014年(平成26年) 住民登録

2014年(平成26年)

思い出しますね。 磯次郎の沢。 秋には山葡萄・こくわ・茸  よく取りにいきました。 それに 色々化石。 もうダムの底ですね。 歴史の一頁。  たじ<か>北海道, 栄町 70歳以上 男性 - 2014/12/14 _ 15:06:13 真っ黒い川と 清流の磯次郎が  思いで深いです  福士…
鹿島高校 校章 陳列棚

鹿島高校 校章

左右に交差して上に向かう二つのペンの上に 「鹿高」 の文字。     昭和58年(1983年)に閉校になった夕張東高等学校の鹿島高等学校時代(昭和27年~昭和39年)の校章。   夕張北高校鹿島分校が夕張市立鹿島高等学校として独立した年、昭和27年(1952年)に同時に制定された。(作者島正位)  …
常盤町を背に|遠藤義博 楽しかった日々

常盤町を背に|遠藤義博

  私は昭和27年(1952年)産まれです。   子供の頃、常盤町に住んでました。   昭和55年に千歳市に住んでいて、鹿島中学校まで家族でドライブに。校舎も取り壊されグラウンドで、フキ採りをしたのが大夕張の最後の思い出です。その時は、大夕張が水没するとは思っていなくて、今考えると残念です。   今…
歩道橋から錦町方面 ~鹿島小学校前踏切~ 思い出の街角

歩道橋から錦町方面 ~鹿島小学校前踏切~

 歩道橋から撮影した錦町方面の写真。  手前には、今まさに鹿島小学校前の踏切にさしかかる列車、先頭の蒸気機関車のプレートも『No.5』と読める。  大夕張駅に到着だ。      その背景、写真の右手には、鹿島小学校の木造体育館が見えている。昭和53年に新体育館ができるまで、大夕張の子どもたちの体育や…
明石町集会所での映写会 | 高橋正朝 #159 続・大夕張つれづれ

明石町集会所での映写会 | 高橋正朝 #159

   私が鹿島東小学校の3年生から5年生ぐらいまで、明石町の集会所で、夜間に映写会があった。  大夕張の景気が絶好調の時期である。       夏休みの時期には、集会所前の小さな広場に幕を張り、映画を上映した。       映画を上映すると聞いて、陽が落ちる前から広場に駆けつけた。  映画の内容は、…
昭和レトロ博2 |順子 随想

昭和レトロ博2 |順子

 サッポロファクトリーで、懐かしい時代を見てきました。  子供の頃の生活がそのまま!  古い教室に木の机と椅子  だるまストーブ・・・ストーブのそばに座った人は顔が真っ赤になって・・・学校から帰ると外で暗くなるまで遊んでた。    ワカメちゃんカットの頭で、自然のままに・・・   故郷はなくなったけ…
音の思い出|ziny 随想

音の思い出|ziny

 「大夕張の音」  このフレーズに古い記憶が・・・。   昭和35年頃の小学生時代の記憶でしょうか。  昼過ぎから夕方近く、一人でいたのでしょうか。  代々木町2丁目の家の中は静か・・・。   屋根のトタンに、パタ、パタ、パタ、長屋のトタン屋根にパタッ、パタッ、パタパタパタ、タンタンタンタン、パタパ…
三菱大夕張炭砿病院 昭和49年頃 思い出の街角

三菱大夕張炭砿病院 昭和49年頃

  写真すぐ左手の大夕張炭山駅から一日に何度も石炭を運んで行き来していた鉄道は、すでに撤去されてない。 閉山翌年の頃だろうか。   炭砿病院前のかつての線路の周囲に伸びた雑草が、失われた活気の大きさを感じさせる。   右手正面玄関の上には、「三菱大夕張病院」の文字。      …
鹿島中学校 球技大会 その2 学び舎の思い出

鹿島中学校 球技大会 その2

  昭和46年3月卒業の鹿島中学校卒業アルバムから。 「球技大会」とタイトルを打たれたページの一コマ。 アルバム編集委員のつけたコメントには、「何こちゃこちゃやってるの」というコメントが付けられている。   確かに、何をしているのとツッコミを入れたくなるけれど、おそらくサッカーの試合だったのだろう。…
ソニー(SONY)号空飛ぶ冒険 2丁目3番地

ソニー(SONY)号空飛ぶ冒険

昭和34年(1959年)鹿島小学校グラウンドのソニー号  ソニー号について、初めてその名を聞いたのは、もちろん大夕張にいたときではなくて、2001年頃に内川さんから、大夕張上空を周回するその映像を見せていただいたときだった。     いきなり画面タイトルに「ソニー号来校」と出てくるから、これはもう、…
鹿島で暮らした日々 大夕張  本棚

鹿島で暮らした日々 大夕張 

表紙の夕張岳の写真は、シューパロ湖畔にあった展望台からの撮影したもの。   【書 名】『鹿島で暮らした日々 大夕張』        明石町/千年町/宝町/錦町/緑町/栄町/代々木町/富士見町 【発行日】平成10年(1998年)2月発行 【編 集】 夕張シューパロダムふるさと誌編集委員会 【監 修】 …
ザリガニとタニシの棲み分け?| 高橋正朝  #158 続・大夕張つれづれ

ザリガニとタニシの棲み分け?| 高橋正朝  #158

     ザリガニやタニシのことを書いたが、書き忘れたことがあった。  それは、私が鹿島東小学校の生徒だったとき、明石町エリアの沢でザリガニ獲りをしていたころ、ザリガニが棲んでいた場所では、どういうわけか、私は一度もタニシを見たことがなかったのだ。       逆に、タニシがいた場所では、ザリガニを…
鹿島自動車整備工場・自動車教習所前 思い出の街角

鹿島自動車整備工場・自動車教習所前

  千年町から明石町に向かうと、明石橋のすぐ手前のあたり、左手に大きなの看板と建物がたっていた。 周囲には整備を待つ車だろうか、トラックや乗用車などが数多く駐車していた。 看板には『鹿島自動車整備工場』と書かれている。   ここからやや先に、左に曲がっていく道路があった。 そこは自動車教習所だったと…
明石町 番外地 思い出の街角

明石町 番外地

「大夕張つれづれ」や「続大夕張つれづれ」の執筆者、高橋正朝さんが過ごした明石町番外地付近、平成の頃。   大夕張から明石町駅を過ぎ、道路に面した家々の並びが途切れると、岩野石油が見えてくる。   このガソリンスタンドと、砕石が敷き詰められたゆるやかなカーブの道が心に残る。      ここまでくると本…
明石橋銘板 思い出の街角

明石橋銘板

千年町から明石町にさしかかる手前の明石橋。 子どもの頃、道路をバスが行き来するようになって、鉄橋で渡った時の目のくらむような高さを、ほとんど意識することもなく、この橋の上を何度往復していたことだろう。   その後、幾度かこの橋の上に立って周囲を見渡したことがある。   山側を見ると鉄道の旭沢鉄橋(5…
冬の明石橋 思い出の街角

冬の明石橋

『大夕張~鹿島でくらした日々』(平成10年発行)には、最後の住民となった方々の個人史とも言える思い出と地域の写真が掲載されている。その中の一枚。   千年町側から橋を渡った先は、明石町。   ここに写っていないが右手には旭沢にかかる鉄橋が並んでいるという位置関係にあった。   千年町と明石町を隔てる…
竜田の沢(6号の沢)埋め立て工事 思い出の街角

竜田の沢(6号の沢)埋め立て工事

昭和29年(1954年) 白黒写真に色付した画像 石炭貨車の間に立って作業する係員が四名程いるようだ。   大夕張と南部の間は数多くの谷によって隔てられ、石炭を積んで走った鉄道が住民の唯一の交通手段でもあり、生命線だった。   その谷にかかる橋の多くも昭和30年代、大夕張ダム建設と道路建設の工事によ…
こんなお盆があればなあ|斎藤敏幸 随想

こんなお盆があればなあ|斎藤敏幸

 社会に出た後,数回でいいから,こんなお盆を迎えることができたなら,本当に良かったのになあと,今でも思います。       お盆になると、都会へ出て行ったこの街の子供たちが、家族を連れて両親のもとへと帰ってくる。    大夕張の人口が一気に膨らむ。  同窓会で仲間たちと酒を飲み交わす。  少し歳を取…
大夕張鉄道の鉄橋の途中の待避所 | 高橋正朝 #157 続・大夕張つれづれ

大夕張鉄道の鉄橋の途中の待避所 | 高橋正朝 #157

   明石町から南部方面に向かうには、その道路工事が完成するまでは、大夕張鉄道の線路に沿って歩いた。  線路の枕木に足をかけるには、子どもの脚の長さでは、枕木から枕木へと足を乗せられない。  必ず、足を敷石である砕石を踏み込んだ。       歩きにくいものの、道路がないのだから仕方がない。  とは…
2013年(平成25年) 住民登録

2013年(平成25年)

私は団塊世代であるが、当時は1クラス50人以上で、中学校は1学年10クラス以上あった。 今から考えるとすごい数だよね。 通学時や通勤時なんか、道路が人で一杯だったような気がする。 愛知県に住んで40年になるが、やはり本当の故郷は大夕張だ。 今は街が消滅、我々の記憶にしか大夕張が存在しないのが残念だ。…