池田屋食堂と鹿島旅館

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昭和45年頃

白黒写真に着色して修正した画像
右手荒川商店、駅前通りで大夕張駅をみる

池田屋食堂 大夕張最後の思い出 【飯田雅人】(1999.7.20)

 中学生の頃,他愛もない話ですが,当時人気のあった青空晴夫,明夫という漫才コンビが大夕張にきて,その時、「池田屋で飯を食べていたのを見た」という友達の話を感心しながら聞いていました。

 昭和47年4月、父の死によりいよいよ大夕張を去ろうという時,この池田屋で母,弟とラーメンで昼食を取りました。当時の習慣からして大夕張内でほとんど外食というものをしたことがなく,池田屋で食べた大夕張で最初で最後のラーメンは嬉しいようなさびしいような悲しく何とも言えない複雑な気持ちで,人の少ない店に響くつけっぱなしのテレビの画面とともに覚えています。


明石町から緑町【邦雄】(1999年)

 小学校四年生の時に明石町より緑町に越してきました。明石町は大夕張への入口にあたる所に位置して、小さく孤立した町で、商店は生協・購買会・津留商店の三店舗と記憶しております。

 当時、緑町に越して来た時は大きな都会のイメージがありました。その頃よく池田屋の店先で棒アイスを買って食べるのが楽しみでした、今考えると、あの棒アイスの棒は池田屋食堂で客が使った割り箸をアイス棒に使っていたのでしょうか?


大夕張の旅館(鹿島旅館) 【小笠原 憲】(1999年)

 先日の新聞に永山則夫さん(同い年なので)の死刑が執行されたという記事が大きく載っていました。その付け足しのように日高夫妻も処刑されたとありました。大夕張の元旅館だった作業員宿舎に放火して大勢の作業員を焼き殺した夫婦です。

 鹿島のニュースが全国に流されたのはこの陰惨な事件が最初で最後だったのでしょうか。この、元旅館は生協の向かい側、ソバ屋の池田屋の並びにありました。

 わたしは、大夕張から三笠に引っ越す前の2日間ほどをこの旅館で過ごしたことがあります。中学に進む春休みのことで、友達にも会えませんでした。


荒川商店 【Masami Kawauchi】(2021年1月10日)

 荒川商店、当時『アラさん』と言って、5円玉握り締めて、クジを引きに行きました。

 お年玉や、大きいお金入った時は、プラモデルをよく買いました。


懐かしいや~ 【阿部達也】(2021年1月11日)

 池田屋食堂さんは、昭和41年頃、地区で一番早くにカラーテレビを客室に設置してましたね。

 向かえの荒川さんには、駄菓子屋コーナーに5円のクジ引きによく通いました。

 生協も見えてますね。懐かしいや〜


懐かしい風景 【福山 美佐子】(2021年1月11日)

 懐かしいですね。池田さんには、曽祖母と一緒に鍋焼きうどんを食べに行ったり、夏には叔母と、かき氷を食べに行った事があります。

 住まいが千年町だったので、荒川さんには数回しか行ったことがないですが、懐かしい風景です。


昭和43年駅前商店街
昭和43年の商店街

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