大夕張生協 1997
『CO-OP 大夕張生協』の建物に大きく書かれた文字。
さすがに何度も塗替えられてきただろうけれど、古くなっていたとはいえ、往時と比べても建物自体の雰囲気は変わっていなかった。
昭和28年に店舗6坪で発足した生協が発展をとげ、昭和36年(1961年)10月に敷地面積を314坪に広げたその際、おそらく新築された建物だ。
1997年当時、すでに築36年を経過していたが、店舗として、いまだ現役でもあった。
そんな生協には、子どもの頃はともかくとしても、平成7年頃から鹿島小学校の閉校式、住民の撤退へと続くこの頃、大夕張を訪ねても、店舗に入ったことはなかった。
この頃、大夕張生協でお昼ご飯用のパンを買ったという高橋歌子さんは、印象を、
「もう商品もほとんどなくて個人の商店レベルの頃でした。」
という。
2000年に出版された『山里にダムがくる』(菅聖子・文/大西暢夫・写真 山と渓谷社刊)の中で、同じ頃の『大夕張生協』の様子が書かれている。
少々長くなるが、引用しよう。
「大夕張生協」はまだ営業を続けていた。外から見れば、閉店中なのかわからないほどひっそりしているのに、一歩足を踏み入れると驚くほど立派なスーパーマーケットだ。
野菜売り場も、肉や魚の売り場もすべての棚が大きい。なのに置いてある商品が少ないから、ひどくがらんとしてみえる。
店員はレジと生鮮売り場にひとりずつ。
客は私を含めて三人だけ。
蛍光灯が全部ついているのに薄暗く感じるのは、人が少なすぎるせいだろう。
上記本「2 炭鉱町の終わり」から
「炭鉱町の終わり」は、初出1999年2月の記事なので、おそらく1998年頃の大夕張かと思われる。
マスコミで「ダムに沈む町」として盛んに取り上げられていたころだ。
町のサイズにそぐわなくなってしまった建物だっただけに、都会の生活に慣れたものにとっては、余計さびしさが感じられるものだっただろう。上の筆者もそんな感覚を抱いたのかもしれない。
最盛期には、住民のたちの多くが利用していた大きな建物だった。
特に毎月14日の給料日になると大勢の人たちでにぎわい、買い物客が行列をなしたと、多くの人たちが言っているとおりだ。
上記の本では、ライターはこの後、山口キヨ子さんの洋品店を訪ね、住民からの聞き取りを交えながら大夕張の栄華が綴られていく。
自分が、この時期、生協に入ってみようとさえ思わず、ついに一度も入らないで終わったのは、子どもの頃のにぎやかな買い物の思い出を知りながら、入った時に感じるであろうそのギャップにとまどい、向き合うだけの勇気がもてなかったからなのかもしれない。