秋枯れの街へ その2
2023年11月21日、秋枯れた大夕張へいこう、と出かけた。
かつて大夕張へは、本町・鹿ノ谷方面からは清水沢で左へ曲がった。
今は、紅葉山から清水沢で右に、曲がって向かう。
清水沢で曲がってまもなく雪で真っ白の夕張岳が正面に見える。
清水沢発電所の手前。春には満開の桜と残雪の夕張岳が見えるところだ。
ここを通る度に思い出すことがある。
昭和54年(1979年)、このあたりで、速度違反で警察に青切符を切られた。
大学を卒業前に自動車免許を取りたいということもあり、四年の時にとった。そして同時に68万円の中古車も購入した。
初めて自分の足で動けるようになった時に考えたことも、『大夕張に帰る』ことだった。
昭和47年(1972年)に大夕張を出てから、自分は何度か友人達の車でいったことはあった。
その時、初めて母や弟を連れて大夕張に三人で行こうということになったのだった。
母や弟にとっては父が亡くなって大夕張を出て以来、初めての大夕張だった。
その途中、ここでの青切符であった。
切符を切られている間、母は警察に連れて行かれたらどうしようと心配で青くなっていたと、車に残った弟から聞かされ、笑えない笑い話にもなった。
当時大夕張へ行くと自分は残る街並みと周りの風景に、元気をもらっていた。
そんな思いから母を連れていったような気もするが、この時、青切符というハプニングもあったせいか、母とはあまり話が弾んだ印象はない。
「寂しくなったね」と、小さく寂しくなった街の様子に、言葉がでなかったのかもしれない。
それ以来、母を大夕張に連れていったことは一度もない。
ダムに沈むと聞いた時も、「行きたい」とはひとことも言わなかった。
それでも、86歳で亡くなる前には、元気だった父の姿や、戦争中に味わった苦労、毎日の畑での重労働にあけくれた小学校時代、戦後の進駐軍の姿や、外国人労働者による街の混乱、大夕張のくらしを時折思い出すかのように、病床のベッドの上で口をついて出た。
『大夕張』という土地にどんな思いがあったのかは、わからない。
ただその辿った人生から想像することだけはできる。
子ども時代だけをそこで過ごした自分のように、ただただ懐かしいといえるほど、単純ではなかったようだ。