〘 小学館 〙の雑誌〘 ボーイズライフ 〙その2|高橋正朝 #179
〘 ボーイズライフ 〙の何月号だったかまでは覚えていないが、手塚治虫へのインタビュー記事が載っていたことがあった。
そのなかで、手塚治虫は、『 劇画はやがて滅びる 』という趣旨の記事があった。
実際は、劇画は滅びるどころか、3〜4年後には、劇画が隆盛するようになった。 劇画だけではなく、色んな描写方法がでてきた。
手塚治虫は、自己の描くマンガには強烈な自負と自信があったようで、マンガ月刊誌全盛時に、
『 個性のあるマンガを描くのは、手塚治虫、関谷ひさし、わちさんぺい、だけだ。あとはみんなモノマネだ。』
という意味の、すごいインタビュー記事があった。
私が、鹿島東小学校の4年生か5年生ぐらいのときである。
手の指は、5本ではなく、4本のほうが自然に見えると、同じような時期に、別なマンガ雑誌に載っていたこともあった。
上記の、手塚治虫の言動は、団塊の世代の私の年代のマンガ好きの少年たちは、雑誌の記事を目にした人たちもいるだろう。
手塚治虫は、終生忙しい生活だったようで、なかんづく、医学博士を得る直前はそうだったようだ。
『 手塚が狂った 』と編集者の間でささやかれ、『 アイツ、いつかは✕✕✕てやる 』と編集者に恨まれもしたようである。
原稿が締め切りに間に合わず落としたり、雑誌社の編集者が代筆を他のマンガ家に依頼したり、テンヤワンヤしたようである。
また、無理な原稿依頼するのは、雑誌社が悪いと言っていたようで、何でもかんでも原稿依頼を引き受けた手塚治虫本人の己の行動には触れない。
また、後輩が良い仕事をすると嫉妬するのでも有名だった。
これなどは、手塚治虫の存在感は、他を圧倒しているのに、常に第一線で仕事をしたいという願望があったかららしいが ••••••。
そうは言っても、後輩の面倒見もよく、返してくれるかどうかもわからないのに、マンガを描き始めたばかりの若者に金を貸したりしていたようだ。
手塚治虫は、後輩が良い作品を描いたことに嫉妬したりしたが、その後輩の仕事をジャマしたりはしなかった。
それどころか、それら後輩を、雑誌社に推薦したりもしたようである。
創作を仕事にする職業として、小説家がある。
〘 林芙美子 〙の言動はひどかったらしいが、〘 林芙美子 〙の葬儀委員長をした川端康成の言の一部が、ウイキペディアに載っている。
興味がある人たちは、それに目を通してみてください。
私が劇画家のアシスタントをしていた当時、師匠は四方山話で、
『 手塚は、我々の話しはよく聞いてくれた 』
と何回か話してくれた。
師匠やその劇画家仲間は比較的ヒマがある時期だったが、手塚治虫は当時滅法忙しく、それでも師匠たちに会って話を聞き、大変親切だったようである。
『 劇画はやがて滅びる 』と言ってはいるものの、忙しくても、色んなマンガに目を通していたようである。
それどころか、マンガだけでなく、音楽、映画、読書の閲覧量もすごかったらしい。
私は視聴していないが、NHK だったらしいが、手塚治虫の1週間を密着取材し、仕事の忙しさと睡眠時間の短さを噂には聞いていたが、目の当たりにした人たちは皆驚いたらしい。
文藝春秋だったように思うが、『 聊斎志異 』という中国のオバケの短編集を、手塚治虫が若いときに読み、とても面白かったことが書かれていたのを見て、私もそれを買って読んだことがある。
私にとっても大変面白かった。
角川文庫版で、ときどきでてくるイラストは、札幌出身の『 おおば比呂司 』のようなタッチで、本人が描いたものだったか別なイラストレーターだったかまでは記憶がないが、それらのイラストを見るのも楽しかった。
この角川文庫版は絶版になっているが、古書として、ネットで購入可能のようだ。
(2024年1月14日 記)
(筆者略歴)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
メール宛先:taka-jp@outlook.com (メール宛先変更になりました)
手塚治虫の名を知ったのは、TVの原作者としての名か、漫画本が先か、どちらだったか覚えていない。
そのくらい子どもの時に漫画の世界には手塚治虫の名があふれていた。
おそらく、『鉄腕アトム』から、『ビッグx』、『ジャングル大帝』、誰でも知ってるような有名なTV漫画の系譜は、ほとんど大夕張時代と時期を一にする。
その原作者は、手塚治虫だということは、よく知っていた。
雑誌に載っていた原作を目にすることもあったが、記憶のほとんどはTV漫画だった。
大夕張を後にした1974年ころからTVで『宇宙戦艦ヤマト』が人気だったころには、TV漫画への関心を失っていた。
それ以来、漫画はほとんど見ていなかった。
手塚治虫の漫画を最後に手にしたのは、1980年代に角川から『太陽編』が出て、一種のブームのようになり、それまでの『火の鳥』も復刊されて発売された時期だった。
『黎明編』から『太陽編』まで、学生だった自分は夢中になって読み進めた。
久しぶりに少年の頃の楽しかった記憶がよみがえり、漫画の世界を味わったようだった。
そんな『火の鳥』も1950年代から漫画雑誌に連載され、手塚治虫のライフワークだったということを知ったのはずっと後のことだった。