私が鹿島中学校に在籍したころの教室配置のおぼろげな記憶 | 高橋正朝 #202
我々団塊の世代が在籍していた昭和35年後半の鹿島中学校の教室配置は、昭和46年の配置とは、少し違っていた。
理科室だったのが、団塊の世代で生徒数が膨れたために、私が2年生のときに K 組となった。
もしかすると、1〜2年前に、すでに一般教室になっていたかもしれない。
一般教室にしても、実験やそれらの器具を洗浄するための、水栓や人研ぎ( ジントギ )台はそのままあった。 数年後に元に戻すことを想定していたのだと思われる。
この教室については、続・大夕張つれづれ # 67 〘 鹿島中学校 K 組の理科の実験台 〙で触れている。
生徒数は漸減し、やがて、一般教室として使用していたものを、理科室に戻したようである。
その真上は、私の在籍時も昭和46年も音楽室で、音響を考慮した建築だから、そのままだったようだ。
昭和46年には、1階にも音楽室があるが、団塊の世代の時代にはなかった。
2階の美術室は、我々の時代には、一般教室となっており、後年、美術室に戻したようだ。
スミレ学級は、位置としては、昭和46年の配置図の列だが、我々の在籍時には、もっと職員室に近かった。 そのすぐ隣は、図書室だったように思う。 また、その列には、3年生の教室が2クラスあったと思う。
当時の1クラス、3年 K 組は、飛地のようにして、正面玄関や職員室の列にあった。
我々の年代には、学年は A 組から K 組まで、10クラスあった。 J 組というのはないが、この J 組は、我々が2年生のとき、解体されたクラス名だったかもしれない。
昭和46年の教室配置図では、3年生は6クラスである。 昭和38年度の我々の60パーセントである。 ずいぶんと生徒数が減ったんだなァ ••••••。
昭和46年の教室配置図では、1年生の教室となっている列は、我々の在籍時には2年生の教室だった。
正面玄関や職員室に並行した列は、3年生の教室で、1年生の教室の列は、3年生と2年生の教室の列の間に位置していた。
石炭庫は、同じ位置である。 私の在籍時、石炭庫から煙が出たことがあった。 しかし、誰も驚きはしなかった。 石炭を堆積したら、条件次第で、自然発火するのは、石炭産業の町の人々には常識だったからネ ••••••。
(2024年6月22日 記)
(筆者略歴)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
メール宛先:taka-jp@outlook.com (メール宛先変更になりました)
鹿島中学校の理科室と聞いて、いつも苦い思い出が蘇る。
『出張掃除』の当番中、水道の蛇口から誤って放水された水を頭からかぶった。
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さて、昭和46年の教室配置図だが、これを自分が作ったのは20数年前だ。
詳しくは忘れてしまったが、資料に載っていた平面図を下敷きに教室名を書き込んだという記憶がある。
職員室や、特別教室の一部などは元々記載されていたと思うが、教室名は一部思い出しながら、という作業だったように思う。
だから1年生の教室はE組が抜けているのもその時の間違いだ。
あらためて配置図を見ると西側の石炭庫と作業室の間は、空白になっている。
記憶では、当時ここは空き教室が続いていた。
その一部が「作業室」となっていて、ここでは、文化祭(学校祭)の時の大道具づくり(仮装行列のだしものづくりなども)を、この教室でおこなっていた。
おそらく最盛期には、こちらも一般教室がずらりと並んでいたに違いない。
上記地図について、追記
Kawauchiさんの記憶によれば、地図の左上、石炭庫の隣は、女子トイレだったという。
そして、『スミレ学級』と書かれたところは、『あかしや学級』ということだ。
そう言われれば、『スミレ』は鹿島小学校で、鹿島中学校は、『あかしや』という名称だったような気がする。
鹿島中学校の卒業名簿で確認することができました。
確かに、ひらがなで、『すみれ学級』卒業でした。