ストーブの灰捨て場 | 高橋正朝 #207
昭和46年の教室配置図で、11時の方角に、スミレ学級がある。 その少し左下の外部に、〘 焼物 〙と表記されたものがあると、前回に言及した。
この場所の付近には、石炭ガラ、すなわちストーブの灰捨て場があった。
私が鹿島中学校の3年生のときには、そこに灰捨て場があったことは、記憶が定かである。
本来なら、校舎から外に出るときは、上履きから長靴に履き替えなければいけないが、片手に石炭ガラが入ったガンガンを持ち、さらに片手に長靴を持参するのが面倒で、横着して長靴を持っていかなかったことは何度かあった。
真冬、石炭ガラを捨てに行ったとき、ちょうど雪が間断なく降っており、上履きをはいたまま、石炭ガラを捨てに、廊下から外に出、廊下の出入り口に戻ったら、そこに、1年生の男子生徒が佇んでいた。 手には、石炭ガラが入ったガンガンを持っている。
けっこうな雪降りだったので、その男子生徒は、土足で外に出ることに躊躇していた。 それを見て、私が、彼のガンガンを手にとって石炭ガラを捨てた。
出入り口に戻ったら、別な小柄な男子生徒が、やはり、ガンガンを持って外に出るのをためらっていた。 このときも、私が彼のガンガンを手にとって石炭ガラを捨てた。
このようなことが、その冬には3回か4回あった。 私が1年生と2年生のときには、他に代わってそのような行動はとったことはなかった。
そのため、1年生と2年生のときも、同じ場所が灰捨て場だったかどうかは記憶がない ••••••。 と同時に、3年生のときに、たまたま出くわした1年生が持っていた石炭ガラを捨てた記憶だけはハッキリしている。
石炭ガラは、ストーブからでた燃えカスなのは、だれでも知っている。
そのストーブのそばには、石炭を容れた木箱があった。 その木箱には、十能と北海道弁でデレッキと呼んでいた火かき棒があった。
ガンガンは、どの位置にあったか、記憶に不明だ。 さらに、ストーブがどうなっていたかも記憶にない。
この意味は、夏場にも、ストーブは、黒板に向かって左側に置いてあったのかどうか、という意味だ。
夏場には、教室のストーブは焚かないのは当然だが、そのストーブは、年中、同じ場所に鎮座していたかどうかの記憶はない。
(2024年7月28日 記)
(筆者略歴)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
メール宛先:taka-jp@outlook.com (メール宛先変更になりました)
灰捨てに外に出るときに横着して内グツのまま外に出ようとしたことがあった。
冬や時期によっては、泥が付いたりよごれるので、そんなときは諦めて玄関に外グツをとりにいった、そんな当時の生活実感を思い出した。なんとか面倒くさい当番を楽をしようとズルしていたこともあったなあ・・・。
学校だけでなく住宅地にも家のそばには必ず灰捨て場があった。
自分は大夕張で3回引っ越ししたが、2回は富士見町の山の近くだったので、沢の崖や坂の上の高いところから下に灰を投げ捨てるような場所にあった。
子どもの時は、土や石も大切な遊び道具の一つだった、いろいろな場所に入り込んで遊んでいた。
ただ、『灰置き場』の灰だけは、『ゆるく』すぐ崩れてしまい、靴が埋まるので、あまり楽しく遊べなかったように思う。