理容フレンド (栄町)
昭和48年 三菱大夕張炭砿、閉山の年。こころなしか閑散としているようだ。第二聖心幼稚園の前には横断歩道が描かれる。『フレンド』前には、一台の自転車。散髪中だろうか。
「坊ちゃん刈り」 【飯田雅人】(2021年2月20日)
栄町の商店街の一番北側の端っこ、道路を挟んで幼稚園の隣に床屋さん、理容『フレンド』がありました。
『フレンド』に隣接してパーマ屋さんもありました。フレンドの角を曲がると、富士見町方向。スキー場につきあたります。
右手に栄町アパートが並んでいます。通りを横切ってシューシューと蒸気を上げる配管が懐かしい。
『フレンド』の壁には、オロナイン軟膏の看板が、貼ってあります。
その下にはおそらく映画のポスターと思われものが貼ってあります。
学校の行き帰りには、この店の前にかかった総天然色映画のポスターを見て、協和会館に見に行きたい映画を見つけていました。もっぱら東宝の怪獣映画でしたが。
この写真、昭和48年ということで、栄町ブロックの窓も締め切られているようで、なんだか寂しい風景に見えてしまいます。
昭和30年代から昭和40年半ばまで、大夕張にいた時は、『理容フレンド』以外の床屋さんに行った記憶はありません。下の投稿で、「准ちゃん」が書いている側溝にかかる橋も、茶色い色をした「皮の直垂」(革砥ベルトというのだそう)も、よく覚えています。
側溝に面した待合で順番を待つ間、沢山の漫画の本がおいてありました。普段読むことのなかった少女漫画がおいてあり、『リボン』や『少女フレンド』をここで初めて読むことができました。
自分の番になり、通りに背を向けて大きな鏡を前に座ると、目の前の鏡には、通りを行く人がうつっています。夏、明け放れた窓からは、夕張岳から吹き下ろす心地よい風が吹き込んできます。
いつも散髪してくれた方は、眉毛がこく、彫りの深い体格のよい男性でした。白衣のようなパリッとしたシャツを着ていた印象があります。
内気な小学生の私は、自分の髪型をどうするのか、聞かれるのが、嫌でした。説明するのが、苦手だったからです。それに、小学生だった自分には特に希望もありません。
「前髪はどうしますか?」。。。。。「そろえてください」
「すそはどうしますか?」。。。。。「すそ刈りにして下さい」
そんな毎度の決まり文句の結果、立派な昭和の『坊ちゃん刈り』の完成です。
髪をきってもらって、顔を剃る段になると、その太くたくましい腕で、革砥ベルトを使って、シュッシュツと、カミソリを研ぎはじめます。
その時の『恐怖』。
石けんをといた白い陶器の入れ物に、ブラシを入れ、クルクルっと回して、さっと顔に石けんをつけられたときの『こちょばしさ』。
そして、『恐怖』のカミソリで、鼻の下、顎を剃っているときの、どうしてカミソリなのに、顔の上で「ツルツル滑るんだろう」といういつも感じる疑問。
・・・忘れません。
それらは、結局のところ、職人の技術に感嘆している子どもの心に残った印象以外の何ものでもないのですが、つよく心に残ったのでした。
ちなみにここのお店は恩田さんという方が経営していたそうです。
大きな床屋さん 【准ちゃん】(2005年7月29日)
私にとって理容フレンドは、この写真とずいぶん異なるイメージです。大きな床屋さんで、椅子も7台くらいは並んでいたように思います。
通りからも様子が覗ける広い窓と客の前にでんと並ぶ大きな鏡が圧倒的でした。入ると、いつも暖かかったような・・
椅子の前に皮の直垂みたいなものがぶら下がっていて、これでカミソリを研ぐのは不気味でした。
でも何より印象的だったのは、この店の前に深い側溝があり、それにかかる橋を渡って店に出入りしたことです。幼いときの思い出だったからなのかな?
私が勤めていた頃 【せつこさん】(2005年7月29日)
私はフレンドの美容室に勤めていました。
懐かしい写真です。
あの頃の事思い出すと、私にとって一番良い時代でした。
もう一度戻ってみたいな・・・。
生まれてから、一度も切った事がなかった髪を小学校一年生の頃流行っていたショウトカットにしたのがフレンドでした❗鏡に映った自分の姿にショックを受けた事が懐かしく思い出しました。
昭和43年頃に義妹(美容師)の友達を、大夕張から千歳空港迄自家用車でしょう送った事が有りました。
本州に就職だったのでしょう。