ラジオドラマ、〘 オヤカマ氏とオイソガ氏 〙 | 高橋正朝 #221
前回、〘 チャッカリ夫人とウッカリ夫人 〙を書き込んだあと、何やら連想ゲームのように、ラジオドラマの〘 オヤカマ氏とオイソガ氏 〙を思い出した。
その時点では、〘 オヤカマ氏とオイソガ氏 〙のラジオドラマは、断片的とはいえ、〘 チャッカリ夫人とウッカリ夫人 〙の番組ほどの記憶ではなかった。
とにかく、そういう名称のラジオドラマがあったような記憶なので、ネットで検索してみたら出てきた。
原作者は誰だったか覚えていなかったが、もちろん、その名前も出ていた。
原作者は、〘 岡部冬彦 〙である。
そのマンガは、偶然見たことがあったのだが、題名そのものは、〘 アツカマ氏 〙だったか〘 オヤカマ氏 〙だったか〘 オイソガ氏 〙だったか、それとも、〘 オヤカマ氏とオイソガ氏 〙だったかまでは判然としない。
しかし、私が聴いたラジオドラマの題名は、〘 オヤカマ氏とオイソガ氏 〙だったのは確かである。
私は覚えていない内容だが、ネットの記事によると、文化放送で、1957年(昭和32年)2月、朝8時から15分間毎日放送されていたらしい。
つまり、週7日間、8年にもわたり3000回を超えて放送されていたらしい。
祝祭日にも放送されていたかどうかまでは記載がない。 最後までの放送回数にも言及がない。
録音機材についての記載もない。 もし、生放送を続けていたとしたら、すごい努力だ ••••••。
このラジオドラマの題名は、〘 オヤカマ氏とオイソガ氏 〙だが、映画の題名は、〘 アツカマ氏とオヤカマ氏 〙となっている。
このラジオドラマのテーマソングをチェックしてみたが、出てこない。
私がわずかに覚えている部分は、
『 ♪〜オヤカマ氏とオイソガ氏、オイソガ氏とオヤカマ氏♪ 』だけである。
このラジオドラマのネットの記事を追いかけてみたら、〘 藤子不二雄A 〙のマンガ、〘 まんが道 〙の1コマがあった。
主人公2人が、下宿していて、ラジオの〘 オヤカマ氏とオイソガ氏 〙の放送で目がさめる場面である。
この、〘 藤子不二雄A 〙の〘 まんが道 〙の中公文庫コミック版は、バンコクの古本屋で、全14巻がバラバラに売られていたのを、数回かけて買っていた。
ところが、第8巻は入手できなかった。
主人公2人が、ラジオ放送で目がさめる1コマは、ストーリーの展開から、その第8巻にあるようだ。
残念無念であるが、マンガのシリーズものの1冊がなくても、何ら痛痒はない。 しかし、私の人生の軌跡は、マ、だいたいこのような相似である ••••••。
岡部冬彦は、東京通信工業が、ソニーに改称したとき、〘 ソニー坊や 〙のキャラクターを描いていた。
絵本や子ども向けのマンガも描いていたが、彼のマンガは、週刊朝日や週刊文春などの大人が読む雑誌に載っていることが多かった。 少年マガジンだったか少年サンデーだったか覚えてないが、裏表紙に広告用のマンガを描いていたこともあった。
この、〘 オヤカマ氏とオイソガ氏 〙のラジオドラマには、柳家金語楼が出演している。
映画の〘 アツカマ氏とオヤカマ氏 〙には、森繁久彌が出演しているが、私は、その映画は観ていない。 ラジオドラマを聴いてはいたものの、連続してはいない。
明石町番外地にあった我が家から、鹿島東小学校に登校する時刻は、07:15 だった。
それで、〘 オヤカマ氏とオイソガ氏 〙の放送は毎日だったから、日曜日には聴いていたかもしれないがウィークデーには聴けない。
主に夏休みや冬休みに聴いていたことになる。
前回の〘 チャッカリ夫人とウッカリ夫人 〙の放送時間は、月曜日から土曜日の 09:00 から15分間なので、この番組も、やはり、夏休みや冬休みに聴いていたものと思われる。
(2024年11月2日 記)
(筆者略歴)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
メール宛先:taka-jp@outlook.com (メール宛先変更になりました)
朝出がけのTVは何だったろうかと考えてみた。
すぐに浮かんだのはNHK朝ドラの『おはなはん』だ。
1966年の放送なので、自分は小学校5年生からの記憶だ。
翌年の『旅路』もよく覚えている。
この番組は8時15分からの放送だからこれが始まってから家をでると、富士見町3丁目の家から鹿島小学校には間に合わない。(家からでると、鹿島小学校の建物は遠くにみえているという距離だ)
だから題名は知っていても学校が休みの日以外は見ていない。
これが目安だったような気がする。
高橋さんは、明石町番外地の家から鹿島東小に通うのに、7時15分に家を出ている。
自分は8時15分がぎりぎりという感覚だ。
おそらく学校は8時半までに登校ということだったのだろうが、意外と大夕張は広かった。