1997年の街歩き 閉山後の誘致企業
写真は、イサオ製作所。
旧礦業所事務所のゲートを入って、敷地内に入ったところ。
開け放たれた扉に向かって、広く道が続いていた。
1997年5月この時、工場はまだ稼働しているようだった。
1973年の閉山後した後、大夕張に残った住民を中心に『大夕張対策委員会』が設立され、企業誘致に務めたが上手くいかなかった。
その間の努力と苦労を、当時鹿島東小学校に勤務されていてこの運動に携わった佐々木定男先生が『山麓の谷間に花咲かず』という題で、『大夕張 鹿島で暮らした日々』に寄稿した文章の中でふり返っている。
このイサオ製作所夕張工場は、その中でも数少ない成功例のひとつだったのだろう。
当時、夕張シューパロダム協議会会長だった松原等さんが、対談の中で、大夕張の企業誘致についてふり返り、次の様に述べている。(司会は、副会長の清水俊治さん)
前述の同書から抜粋する。
閉山後誘致された企業で残っているところはどこでしょうか。
そうしますと、日北酵素はどうなったんですか。
日北さんは、全然別です。あそこはハマリ薬品が来るはずだったのです。杉田さんは、ハマリ薬品に入社する予定でしたが、結局48年の暮れのオイルショックで大夕張に来るのを断念したようです。ですからハマリ薬局さんは、幻の誘致企業になってしまいました。
現実に企業として来たのは、北日本プレコン、それと松本民芸とか四つくらいです。
北日本プレコンは、建築資材とかをイサオ製作所のすぐ下で、昔の営繕の倉庫で割り箸とかを作っていました。佐藤くんと、鈴木くんは新しい会社をつくったのですが、ユニオンとパイオニア、でも二つとも飛んでしまいました。ですから結局残ったのはイサオだけです。
閉山後、新しいまちづくりということで、商工会もかなり運動したのですが、例えば、刑務所とか、私立大学とか、最後は自衛隊誘致の話も出ました。
それからスキー場開発とか、ヘリコプター基地とか。
でも結果的には何もできなかったですね。
あのころ大夕張の執行部が3人残ったわけですが、私と佐藤宜一と鈴木章一の3人で大夕張再開発対策委員会を作って、地域の人といろんな話をして、何度も市役所に行っていろんなことを提案したのですが、東高校の跡地だって何とか残しましたし、刑務所問題も賛成か反対か決めるあいだによそにもっていかれたりとか、自衛隊とかも全然ですし。
あれはたしか、月形の刑務所ですね。