黄色い旗と思い出ノート 1

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以下、『ふるさと大夕張』(1丁目1番地)の方に今も掲載されているページを、そのまま転載します。

 

平成10年(1998年)4月から平成12年(2000年)にかけて記入されたものを第一集から第三集として、3回に分けて、今回は第一集(平成10年~11年分)を掲載します。

 

 

 

 平成10年 すでに廃校になった鹿島小学校の玄関前にいつの頃からか一冊のノートと鉛筆が置かれていました。

 そして鹿島小学校校舎が解体された後もそのノートと鉛筆は,グランドの記念碑の片隅に場所を変えつつ,訪れる人たちの足跡を記録し続けました。

 
 平成8年秋,大夕張の盛衰を見つめてきた小高い丘の上に立つ浄水場そばの旧神社の木に黄色い旗が設置されました。

 
 ふるさとを訪れた人たちは思いを込めて旗をふるさとの丘につなぎとめて行きました。

 
 そのノートと旗の設置者である原付デブマンさん、テキスト化してくださった長谷川さんのご厚意に感謝しつつこのページを公開します。

 

思い出ノート

(設置場所 夕張市鹿島)

平成10年4月~平成11年5月

【平成10年(1998年)】

平成10年4月19日

原付き黄色いハタマンより、後、原付きデブマン
昨年、旧神社に黄色いハンカチじゃなく、ハンカチより大きい黄色いハタを3枚付けました。
もう今年は無いと「黄色いハタ」思いましたが残ってました。少しボロボロになっていましたが残ってました。カンゲキ。
もともとは見送り「大夕張から出る人を」のつもりで付けましたのですが、今年も二枚の黄色いハタとコイノボリを付けました。
自分以外にも誰かが小さいハタ「ハンカチ」を付けた人もいました。夕張の黄色いハンカチより大夕張の黄色いハタ、大夕張から出た人が他の土地で幸せになりますように


平成10年4月24日

岩野
ぼくは、さいごの、そつぎょうせいです
また、学校で勉強やサッカーや遊びたいです

五年間、ありがとう


愛知県岡崎市 K T「旧姓」10年
この小学校の生徒で30年ぶりに帰ってきました、子供の頃のイメージと全然違っていて少しびっくり。
又、ダムになると聞いて残念に思います。でも、長い間来たいと思っていて、なかなか来る機会がなかってけど、今、思い出の小学校に来れて感動しています。 友達にも会いたかったな、いろいろ思い出が頭によみがえります。
もう北海道に来る時は無いと思うので、精一杯遊んで帰ります。
じゃ、バイバイ、鹿島小学校ありがとう。


平成10年5月4日 
原付きデブマン
先月、旧神社に黄色いハタ2枚付けた。今日も2枚付けた。その内、神社、黄色いハタだらけ。シンボルにしたいけど、そのうち誰かに、じゃまくさいとはずされるでしょう。
神社の桜、昨年の今頃、満開だったのに、今年は咲いていない。葉も付いていないので、枯れてしまったかも知れない。 残念。
今日は天気が良いので気分がよい。


平成10年5月4日

44才
ダムに沈むことになってから二度ほどこの故郷に訪れました。25年前にこの町を離れて、今思うことは、一杯有りすぎて、書き切れません。生まれ育ったこの町が、どんな形でもいいので残って欲しいと望むだけです。
遠くの山が見え、だんだんその山が近くなり、すっかり山の中に入るまでの道をひたすら走りながら思うことは昔のことばかりですが、
今は誰もいなくなり、ここにもう入って来られなくなると思い、今日も来ました。幼少の頃、学生の頃、言葉に出来ない思い出ばかりです。また訪れてこられますよう、今しばらくこのままであってほしいと思っています。
このアイディアありがとう


平成10年5月6日

24才 女
富良野の帰りに寄ってみました。
まだ小学生がいそうな雰囲気ですね、とても淋しいです。
なんか、なき声が淋しく聞こえます。
ダムに沈む前に、もう一度来ます。


平成10年5月6日
75才
35年前、夕張を去った元教員です。
ここへ来て、感無量です。
              山本 三男


平成10年5月12日
不 詳
鉄道廃線跡をたどって来て、ここの事を知りました。実は、これが2回目で前回は4月19日に朝に来てます。
その時は、これが無かったのですが自分の母が南大夕張出身なので、何かとても引き付けられるような気がします。
また来ます。


大夕張について 高1 高梨 力昭
大夕張は たんこうが へいざんになり 人びとがいなくなりました。
そして、こんどはダムになります。
友達と わかれました。でもダムができれば 水にこまらなくなると思います。


平成10年5月30日
大夕張について 浅倉 元一
今、この大夕張に来て本当に家が無くなりました。
大夕張に釣りをした帰りに寄りました。中学一年の時、鹿島中学校の学校祭を見ました。
さびれていながらも、すごいいものを見せてもらいました。
夕張市内の学校の人として悲しいです。でも、引っ越して行った人達も負けないで頑張ってください。


平成10年6月1日
S T 札幌在住
30年過ごした 母と二人で 昔をしのぶ
16時 大雨になりそうだ また来るぞ
静けさの中 解体作業の音だけ 淋しく聞こえる


平成10年6月3日
K M
12:39 代々木アパートが解体と新聞に出ていたので、今日来てみたら旧大夕張駅が解体中でした。来るたびに何か一つずつ無くなっているような気がします。
これから旧神社へ行ってハタを見てきたいのですが、道がわからなくて行くのは時間がかかると思います。
遠くで解体作業の音が聞こえ出しました。


平成10年6月7日
原付きデブマン
先月、5月4日に来たときは、まだ大夕張駅が残っていたが、今日来たらもう無かった。残念である。町が無くなるということは思い出の家も建物も無くなるということですかね。
せめて小学校だけでも記念館として残したいですね。


平成10年6月7日
K M
先日、ハタを見に行くと書いてさっそく行ってきました。眺めがとても良いところです。
このハタの写真が先日、新聞に出、代々木アパートの解体中の写真と出ていました。そのうちまた、ハタを見に行ってみようと思います。


平成10年6月8日 PM11:00
埼玉県のおじさんライダー 48才
通りすがりの旅のものです、この学校を見ているとなぜか淋しくなります。以前は、この学校に多くの子供が居たんだろうにと思いました。
街のあちらこちらで家が壊されていました。畑は荒れ地に変わり、草や木が一番元気に見えた。立派な体育館、広い校舎、だが淋しそうです。
もう、どうにもならないのですか。


平成10年6月10日 午後4時10分 
高田 雅之
以前、この学校に事務職員として、お世話になった者です。思い起こせば18年前、新卒で社会人一年生となった私を暖かく迎えてくれたのが大夕張の人びとでした。
わずか3年間の勤務でしたが、本当にお世話になりました。 この地がダムの底に沈むのは本当に残念でなりません。
私の第二の故郷として心の中に何時までも残したいと思います。3月の閉校式には都合で来れず、残念でした。社会人のスタートをこの地で出来たことを感謝しています。
本当に有り難う御座います。
私は何時までも大夕張を忘れません。


平成10年6月16日
東京都青梅市 荒井 圭介
鳥の声だけが聞こえる この場所
夕張に初めて来たとき
考え方が変わった


平成10年6月20日
静岡県三島市 山下 昭次
23年ぶりに来ました。頭の中を思い出が回ります。
ダムの底に沈むと聞いて、出張のついでに寄りました。
今は横浜で仕事をしています。親父、おふくろもこの土地で頑張ってきました。大夕張 鹿島 本当に ありがとう。


平成10年6月21日
札幌在住 岩佐千代子 敦子 揚子 加藤健治
昭和43年3月に、この学校を退職した父に代わり訪れた。
校舎を見て、懐かしくもあり、悲しく思う。


平成10年6月21日
K M
いい天気です、娘と来ました。
草がぼうぼう生えて、4月5日とは見違えています。
まもなく夏です。


平成10年6月28日
京都市 吉村 耕一
XLR250 BAJA
大夕張が沈むのは、悲しいものですネ。さようなら。


平成10年7月2日
東京 金子 菊池 4名
久し振りに大夕張に来ました。解体され昔を思えば寂しい感じしています。
今、昔を思いだし、良いことばかり思い出します。
ザンネンです。


平成10年7月5日
原付きデブマン
最後まで残ると思っていた代々木アパート、6月7日に来たときは、すでに無く、残念だった。
最近、テレビにもダムに沈む町も出なくなり、寂しい気がするが時代の流れで仕方ない気がする。
この小学校、資料館か記念館に出来ないですかね。大夕張出身者でどうにかなる人、いないですかね。
小学校だけでも残したいですね。ここが大夕張でした、という物を残したいね。

「このノートと旧神社の黄色いハタを、思い出の一つとして来てくれた人へ
 大変嬉しく思います。このノートを置いて良かったと思います。」
ノートを置いて黄色いハタを付けた 原付きデブマンより


平成10年7月13日
埼玉から来たライダー
僕はダムはキライです、多くの人達の思い出と静かな町が、またひとつ、ダムの底に沈むと思うと、いたたまれません。
本当にここにダムが必要なのでしょうか、多くの自然を破壊し川を濁し、魚の住まないところにして。
次に来たときに、また、この風景が残っている事を期待します。
手が、かじかんで、乱筆失礼します。気温12度


平成10年7月14日
K M
11月に大夕張ダムの問題に絡めての炭坑の写真展が開かれます。
先月「いまだから」というテーマで写真展をやっていたので見に行ったら、ここの小学校の周りの風景を撮った写真が出ていました。本当に当時は周りに家がいっぱいあって、改めてここに来てみると全然違う感じがします。
自分も少しながら出品予定なので。少しでも多く、この辺りの風景を撮っておきたいと思ってます。
4月19日から10回以上来たと思うけど、建物がどんどん無くなっています。


平成10年7月24日
立教大学 大夕張友の会 石垣惣之助
夏の大夕張は8年ぶりでしょうか、家も建物も殆ど無くなりました。
鹿島小学校の校庭も子供達の姿はありません。
それぞれが、それぞれの場所で元気に暮らして欲しいと思うだけです。

逢いたい人が居る 大切な地 それが大夕張でした「桃栄」


平成10年7月26日 
平野 一美
初めて来たけど結構、大きな学校で、その頃の生徒の多さが分かるような気がする。


平成10年7月27日 
池田準太 13回忌
        伸子 文男 一恵 雅夫 八重子(妻)
13回忌、法要執り行う。これで大夕張に兄弟が集まるのも最後。
兄弟全員、鹿島小学校卒。懐かしみ学校を訪れました。


平成10年7月29日 
羽沢タネ 重信 鎌田栄子 蛯名京子
大夕張に住んでいました。兄弟、母や子供達と京都から来ました。
母や兄と来るのは、これで最後だと思います。一軒有りました、木工場の人達と話しして一回りして帰ります。子供達は大きな学校だねと言っていました。
人口の多さがしのばれます。


平成10年7月29日 
横浜 千葉洋介 洋子
昨年、夏、新聞で大夕張ダムのダムを知り、ここに訪れました。泊まるところも「婦人会館」をお世話していただき、この学校へも市役所の方に連れてきていただいたのを懐かしく思います。昨年は一人で来ました、今年は恋人と二人です。この地区を見せたかった。お世話になった牛乳屋「堀田さん」元気でしょうか、小学校の校長先生、子供達、生きてますか、素晴らしい思い出が出来たことを感謝します。今年も来て良かった。


平成10年7月30日 
栃木県在住 妻 旧姓 白石
妻の出身である大夕張へ来ました。30年ぶりの大夕張との事です。昔、住んでいた所が、すべて無いとのことで、寂しい気持ちが妻の胸の中で溢れていることと思います。
小生は、この土地とは関係ありませんが、妻の頼みを聞くことも一つの思い出と思い、来ました。この学校を見て何か懐かしく、また、淋しい気持ちになることは私も同様です。もう二度と来ることは無いと思いますが、妻も満足していると思います。妻の両親にも一度見せてやりたかったです、写真を撮りました。


平成10年8月6日
高橋
卒業生が
元教員が
元在校生が
今日もまた 自由登校して来る
開かないドアの
ガラスの向こう側にある
思い出を学ぶ為に

住み慣れた町並み
懐かしい人びとは
見慣れた山々は変わらず
悲しいほど優しく
迎えてくれる


平成10年8月9日
不 詳
昨年、雑誌でここの事を知りました。
母校や住んでいた町が消えるのは本当につらいでしょう。
でも、思い出だけは、ずーっと残ります。


平成10年8月9日 
ピーコック フイルム 横山 浩基
夕張シネマ ワークショップのロケハンで来ました。ダムに沈めちゃうのは、もったいない気がします。
まだまだ素敵なロケーションがあるので、何時かきっとプロになって、夕張で映画を撮るぞ。


平成10年8月9日
原付きデブマン
先週、旧神社の黄色いハタのロープが弱って外しましたが、取り替えました。
シューパロ湖畔にもノートをまた、置くことを考えましたが、一度無くなってるので、やっぱり止めました。


平成10年8月12日
旅好き人
何も無くなって淋しいよ。
学校にも入れなかった、時間があったらまた来るぞ。


不 詳
6月に主人が、一人旅で立ち寄ったと家族で夏休みに連れてきてもらった。


不 詳
自然の鳥の鳴く声、心からのんびりしました。


平成10年8月14日 
札幌 片山
昭和43年から46年まで千年町の営林署官舎に住み、東小(東小学校)に通学していたものです。この小学校には野球の交流やメーデーの時、裏手にあった教会の英会話教室に通った思い出があります。ここから見える夕張岳にも二度登りました。
その後、移り住んだ札幌では二度と経験できない思い出を、この大夕張で作らせてもらいました。
学舎に 秋桜ひとつ 風に揺れり


平成10年8月14日
????
西宮から一人で車で回っている者です。
趣のある学校だと思って入ってみると、ダムのために閉校になってしまったのですね。僕はダムなんて作るよりも、大夕張という文化を残しておくことのほうが大切だと思います。景気が悪いと言われているこの国、貴重な税金がダムみたいなものに使われてしまうなんて。僕は初めて大夕張に来たけれど、ダムに沈む前に来たことがせめてもの救いだと思いました。


平成10年8月16日 
静岡県藤枝市 井下  秀文
自転車の旅人です、静岡から来ました。72年に南大夕張まで来たことがあり、その時、構えの割に静かで驚きました。最近、ダム建設の事を知り、やって来ました。歴史の証拠として残して起きたい物は沢山あるのに、人の世とは、人の哀しみとは、いろいろ考えてみます。


平成10年8月18日 
長男 佐藤栄一 次男 幸男 三男 勲生
男三人、そろって大夕張に来ました。
来るたびに家も無くなり、淋しい気持ちです。


平成10年8月18日 
名古屋在住 旧姓 渋谷ミネ子
当、小学校 昭和20年入学、26年卒業
思い出いっぱいの小学校です。ダムの底に沈むと聞き、お別れに来ました。
いろいろな思い出が詰まった学校です。


旧姓 湊谷  子
昭和12年 小学校に入学、17年に満州に行き、引き揚げてからまた、ここに住みました。何年かに一度訪れ、今年はこれが最後で名古屋から来た姪と一緒に感無量の思いでいっぱいです。(名古屋と札幌の親戚二人)


平成10年8月23日 
原付きデブマン
4月末よりこのノートを置きました。遠方から来た方、戦前、戦後にかけて大夕張の小学校を卒業され、今は他の土地で住み大夕張を懐かしく思い、今年で最後であろう人も、いろいろな苦労と思い出が、この大夕張にあったと思います。
このノートを置いて本当に良かったと思います。雪の降る時まで置きたいと思っています。雪が降るまで、まだまだあります。
大夕張に来た方、思い出を書いてください。
来るたびに懐かしい家が無くなるので淋しいですが、これも時代の流れで仕方ないのでしょう。せめて小学校だけでも残して欲しいですね。


平成10年8月24日 
Y K
昨年、今年と仲良し5人組で鹿島小学校を見に来ています。ここに立つと当時に心が戻り、撮っても懐かしく思います。小学校の子供を持つ母親になりましたけど、子供達がとても楽しく、思い出がたくさん残る小学校生活をしてほしいと願っています。
私には、いっぱい思い出がありますから。


平成10年8月25日 
岡村 出町 豊田 大谷
私は初めてここを訪れた。この学校が閉校になったと聞き、とってもせつなく思っていました。ここの卒業生は居ないが、なんだか無くなるということは、とても淋しい気がします。


平成10年8月30日 
栄町出身 A M
たくさんの思い出、有り難う。私は今、玄関に座っています。
楽しかった6年間、本当に有り難う。


平成10年9月2日 
東京都国立市 三浦敦史  SR500 アプリコットオレンジ
皆の思い出が詰まったこの文集に、よそ者の私が加わるのは忍びないですが、ここに来て初めて大夕張がダムの底に沈んだのを知りました。
ここで過ごしていた訳では無いけれど、なんだか淋しいです。私は夕張が好きで毎年必ず来ています。452号線をバイクで流していたら偶然ここを知ったのです。大夕張の人びとは何処へ行って、どんな暮らしを続けているんだろう、目には見えないけれど何だか今でも子供達の声や先生の声が聞こえそうです。もう、秋の虫たちが鳴いています。大夕張の思い出をいっぱい抱えて、皆、素晴らしい人生を送って下さい。
「まだ、大夕張は沈んでいません」


平成10年9月6日 
札幌在住 T N 40才
小学校3年の春に、この大夕張を離れました。当時、見る物すべて大きく見えました。今見ると、こんなに小さいと驚きました、「校舎とグランド」。
今日は私の家族を連れてきました。


平成10年9月8日 
江別在住 YASUKO K 52才
昭和39年、父病死のため、大夕張富士見町を離れました。30数年ぶりに訪れ、何もかもが感無量です。スキー場を見た時、青春時代が、小学校を見た時、小さい子供の頃と、全部蘇ってきました。今では、「有り難う大夕張」と、心から言いたいです。


平成10年9月11日 
山下 浩正
同じ北海道に住んでいながら、今まで一度も来たこともありませんでした。
初めて来ましたが、もう人は居ませんでした。ダムのことはテレビで知りましたが残念です。故郷が無くなることは悲しいことですが、こういう事を平気でやる日本は、まだ中央国?主義の根強く残る後進国と言わなければならないでしょう。鹿島地区は、その被害者となったわけですが、こうした事はもう無くなって欲しいと心から願います。
鹿島の皆さん、他の土地へ行っても元気で暮らしてくれる事を願います。


平成10年9月13日 
原付きデブマン
吉井薬局さんが引っ越しでトラックに荷物を積んでいた。すっかり住人も少なくなった大夕張の寂しい引っ越しである。見送りの人の無い引っ越しになるでしょう。


平成10年9月16日 
「林崎 ヨシ子 母47才」 治男
母の思い出の地、夕張へ来ました。母の弟と来ました。
何も無くなってビックリしています、小学校の卒業生です。


平成10年9月21日
神奈川県藤沢市 
http://www2f.biglobe.ne.jp/~mst_iida/index.html
鹿島小学校出身です。この学校、そして大夕張を愛する人の多さに感謝します。
インターネットを利用できる方、ぜひ。大夕張の情報が満載されています。


神奈川県相模原市 鎌田 裕貴
小学1、2年間、この学校でお世話になりました。
つい最近、廃校となった事を知り非常に残念です。坂本先生はお元気ですか。 思い出をありがとう。


平成10年9月24日 
神奈川県大和市 旧姓 山下 文子
昭和20年6月5日生まれ、小学校4年生までこの学校へ通いました。
今日は、夫、娘、息子、孫、娘の夫と6人で、この地を中心に遊びに来ました。いろいろ幼い頃の思い出がよみがえってまいります。
思い出をありがとう。

母がこの地で生まれたので、子供と見に来ました。皆さん、頑張ってネ。


平成10年9月24日 雨 
札幌より 鈴木「旧姓 熊谷」
沈む前に悲しい小学校と再会でき、嬉しくもあり、撮っても悲しくもあり、やっぱり沈んじゃうのはイヤです。
でも、たくさん、たくさんの思い出ありがとう。そして当時の先生、皆様、ステキなアイディアありがとう。


平成10年9月27日 
K M
久し振りに来ました、駅前通がすごく淋しくなりました。モービルの看板、「吉井薬局店」も無くなってました。家も少なくなってきました。
学校の前、グランドはまだ草を刈っているんでしょうか、天気が悪いです。
冬はこのノート、どうするんでしょうか、冬も来たいです。


平成10年10月3日 
小樽市 沢中 祝次
初めてここを通ります、すっかり涼しく「寒い」なってきて、紅葉してるかなー、なんて、友人と娘と3人で来ました。本当に秋ですね。
大夕張って所、ダムで水の下の町になっちまうんだ。正直、ショックでした。
半年ほど前に来たとき、ここの前にあった銭湯が無くなった、ガッカリしてきたな。駐在所が寂しそうにたたずんでいたのが印象的でした。ところで私は、小樽に住むストリートミュージシャンですが、ここにちなんだ歌を作ろうかなと思っています。ここを管理している方、誰でもいいので感想や思い出、大夕張に対するメッセージをお送り下さい。


平成10年10月11日 
広 瀬
昭和43年まで校長をしていた、岩佐 佐太吉の孫です。
ダムになると聞いて見に来ました、少し寂しいです。


平成10年10月16日 
東京都杉並区 伊東政明
昨日は、どしゃ降りでした。昨年の夏は、まだ人が住んでいたのに今回通ってみて人気のないのに驚きました。私は、この土地に何の縁もありませんが、夕張を始め炭坑の街は、とても寂しい気がします。偶然このノートを見つけましたが、昨日は雨だったのですぐしまいました。今日は天気も良く、またここを通ったので、こうして何か書くことにしました。この小学校、この土地に対する人びとの思いが伝わってくるようなくるような気がします。
私もいつ、北海道に来れるか分かりません。もし、来ることがあれば、再び、この地を訪れようと思います。


平成10年10月17日 
旅の者より
今日は桂沢湖に行った帰りです。夕張の温泉に行こうと思います。立ち寄った学校に懐かしさを感じてしまいました。
学校には思い出がいっぱい詰まっています。思い出はそれぞれ違いますが、学校っていいものですね。失ってから解る大切さ、出会いは、いつでもこの町で。


平成10年10月24日
てっちゃん 61才 雪子 54才
妻と私は当小学校卒です。家では何か機会があるたびに、大夕張での生活を話し合います。私は幼稚園から高校3年生まで当地で生活し、昭和43年に当地を離れました。妻は当地で出生、高3卒で昭和37年札幌に就職して私とめぐり逢い、結婚。現在33年目です。昔の子供時代が思い出され、何度も大夕張に来ます。この地が湖底の中で永い眠りで再生しないかと思うと、淋しさや、嫌な思い出も美化され、今後も妻と子供の頃の大夕張を語り合うことでしょう。当地出身の諸兄姉、諸事?時の卒業された皆さんの、幸福と健康を祈ります。
心の古里、大夕張よ サヨウナラ


平成10年11月1日 
林 友里恵 真梨恵 娘より
母の卒業した学校に来ました。


平成10年11月8日 
岩城 辰也
ダムに沈む大夕張に来ました。
私の祖母、母、叔母さんは昔は大夕張で育った人達で、今日来てとても懐かしく見ています。人間の開発により人口や生活を失われるのは寂しいけど、また何かが産まれるものもあると思う。
炭に栄えし人達に ありがとう


久保 優子
大夕張に来て良かったです、


平成10年11月8日
しおり みな子 しず子 とく子 札幌在住
30年前に若菜に住んでいた。懐かしながら見に来ました。
無くなるそうで悲しい。札幌からはるばる来ました。


平成10年11月17日 
高橋 銭函より
夕張岳に登っている一人です。鹿島小学校の皆さんの、山への、自然への優しい心の標が所々にありました。一部は自然へ帰っていこうとしている標もありましたが、変わらなかった山への、そして自然への心遣いを感謝しますと共に、鹿島小学校が深い思い出と共に眠りにつこうとしている今日、私たちは深く感謝の念を感じるしだいです。
思い出はダムの底より深く、希望は天より高く、鹿島小学校校舎は永遠に


平成10年11月22日 3時39分
K M 
 久々に来ました、旧駅前の郵便局は無くなっていました。本当に来るたびに家が、建物が無くなってきます。とうとう雪が降ってなかなか奥の方は行けなくなりました。ここに来て以来、7カ月になりました。その頃、まだ建物はあり人も行き来していましたが、今日は雪が降ったせいかシーンとしています。
来年の4月で1年になりますが、初めに撮った写真と、今、撮っている写真と比べるのがちょっと恐いです。しかし山並みや周り等は変わりないでしょう。本当に大夕張に来て良かったと思います。自分には縁もない、しかし、自分の母がここの出身ということで、この7カ月ここに来てしまった。来年、雪が解けたら原付きマンさんが、夏に植えて駄目だったヒマワリの種をまこうと思っています。雪が降ってきたので帰ります。  


【平成11年(1999年】

平成11年2月14日 雪 
恵庭 水元 康公   久保田 篤
足を踏み入れた形跡もない雪山を二人でこいで、玄関までようやく到着しました。鹿島小学校の先生を訪ねてここまで来ましたが、閉校していて残念です。


平成11年4月18日 am6:35
K M 
このノートも、とうとう1年になりましたね。
周りはまだ雪深いですが、冬に何度か来たけれど、雪でなかなかたどり着けなかった。生活館や消防のヤグラも無くなり、昨年見た時とはすっかり変わっていました。
これから2年目、このノートはどれだけの人が書いていくのでしょうか。今年も度々来ようと思ってます。


平成11年4月18日 
道端 司
久し振りに鹿島に来ました。余りにも懐かしくて学校の前に来たら、このノートがあったので書いちゃった。もし、このノートを見た人は電話でもしてちょうだい。


平成11年4月22日 
伝 とおる 札幌より
鹿島小学校は卒業してませんが、2・3・4年と通いました。昨年は同窓会も行い、この学校の中に入り、また、神社があった場所に登り、黄色の寄せ書きを吊してきました。
校舎は絶対残して何らかに利用すべきだと思う。


平成11年4月23日 
美 穂
約10年ぶりに来たら、何も無くなって超ビックリ。
前から来たいと思っていたけれど、なかなか来る機会が無かった。
今日はすごく天気がいいし、最愛の人と来てるからすごく幸せ。つきあって旅行らしい旅行は、これが初めて。函館から夕張まではすごく遠かった、だけど釧路までだからまだまだ遠い。アイツが、すごくいい旅だなと言ってくれた、嬉しかった。昔の賑やかさが無いのは寂しいな。いっぱい、いっぱい、いろいろな思い出残る夕張、アイツと来れて良かった。ずっと、ずっと、一緒にアイツと居ようと心に誓った。 PS 思い出に残るいい旅だった


平成11年4月29日 
原付きデブマン
このノート、丸一年になりました。昨年の11月8日に引き揚げようと思いましたが、自分が来た後に書いてくれた人もいました。イタズラもありましたが、今シーズンも置くことにしました。ノートを置いた本人としてはイタズラも無く、皆さんの思い出や次へ来る人への伝言を書いてくれると良いと思います。今日は天気も良く夕張岳もよく見えます、風は寒いです。
消防署、郵便局も無くなってしまい、来るたびに何かが無くなっています。
これが現実ですね。
今年の1月末、同級生がシューパロ湖畔の展望台付近で、自分の命を自分で決着をつけました。
事情はあったと思いますが、残念です。何も手助けできないし、後に残った家族がこれから大変です。湖畔で形式ですが線香とワンカップ、彼も自分も無信心ですが気休めかも。
彼に逢ったのは丸3年前の1月12日が最後でした。
旧神社に黄色いハタ、新しいのを一枚つけました。
無くなっていく町に、せめて黄色いハタぐらい、故郷へ来る人への出迎えの目印になればと思います。 これからも、ノートをよろしく。


平成11年5月2日  
伝 清
鹿島小学校、永久に忘れません。


平成11年5月11日 
K M
やっと雪が解けて桜が咲いてるかと思って来てみましたが、まだ咲いていない。昨年はもう咲いていたのに、やっぱり今年は雪が多かったのでしょう。雪が解けたら周りはゴミだらけだったので、ひろって帰ります。ゴミは散らかさないでほしいと思います。


平成11年5月15日 
H U W A 4年目 H
いやー、何も無いね。昨年10月はまだ家がたくさんあったのにね。


平成11年5月16日 
原付きデブマン
先週も来て、今日も来た。先週は桜「清水沢駅前」も満開だった。そろそろ小学校が解体されるという話しが耳に入ってきた。まだ、何時かは分からないが多分、業者の予定では決まっていると思うが、自分には分からない。小学校玄関に置いていたこのノートを、残念だが一旦、解体工事が終わるまで引き揚げることにした。一年書いてもらって工事のために何処かへ無くなって未練も残るしね。今まで書いてくれた人にも申し訳ないしね。これからどうなるか分からないが、一時的に箱はそのままで別のノートを置きます。いつも来て書いてくれる人も残念だと思います。解体後、新たに場所を考えておきたいと思います。
今日は校舎の中を見学してる人がいたので、30年ぶりに中に入る。懐かしい半面、中はチョーク、教材、机等、荒れている。立つ鳥、跡を濁さず。という言葉がありますが、乱雑に散らかっている校舎内を見ると虚しい感じもする。帰りにユーパロの湯に入って帰るつもりですが、多分時間がないのでチャーハンだけ食べて帰ることになるでしょう。家から往復6時間前後かかるので、あまりゆっくりもできない、なんせ原付きなので。


平成11年5月23日 
原付きデブマン
3週間続けて来ました。先週から別のノートを置きましたが、まだ誰も書いてません。自分の汚い字だけです。何時も来てる人も、書いてないです。
今日は南大夕張のお祭りのようです。初めて南大夕張の神社を見る、まだ新しいようです。今日はユーパロの湯に入って帰ります。夕張メロンはまだ高い。


(思い出ノート 第1集「平成10年4月~平成11年5月」 終了)

 

 

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