冬の大夕張 | 内川准一
昭和24年大夕張生まれ。昭和37年4月札幌に転出。
平成9年(1997年)3月21日
冬の大夕張へ
大夕張の閉鎖が近い。今年中に街も学校もなくなってしまうと、来年からは本当に何もない野原になってしまう。思い出を辿るための何物もなくなってしまう前に、住んでいる人のいる間に冬の大夕張も見ておきたい。
昨年の秋に、ママ・暁美と3人で行った時は、あまりの雑草に行く道を阻まれて、生まれた家のあった辺りには行きつけなかった。雪のある今ならスキーで行ける。
今日は土曜日、昨日はバレンタイン。夕張の映画祭がこの日から始まっている。
夕張でスキーをすることも来た目的の一つであり、帰りには亡くなった————-なので、出発は早くなければならない。が、珍しく寝過ごして、起きたのは8時半。出発は9時半になってしまった。
大夕張についたのは昼近く。潰れかかった家々を見、写真撮影をする。
今は千年町にしか古い家は残っていないが、立派な家がこの辺りにあったよね。
狸御殿の映画や、酒てん童子の気味の悪い映画もここで見た。担任の中村先生の下宿もこの近くだった筈だ。そう思える辺りに犬が一匹つながれていて、車から降りる俺に向かって、数十メートルも先から千切れんばかりに尾を振って歓迎している。田舎の犬は人恋しいのだ。
さらに途中で写真を撮ったりして、代々木町まで来た。三好が昔住んでいたアパートの前に車を止め、スキーにはきかえた。今年は雪が少なく、しまっていて、ゲレンデスキーでも歩きやすい。
冬の思い出
異常に広い大夕張生協で用意してもらった2本のスズランテープを、昔登って遊んだ2本の木を見つけ出して結びつけた。一本の木はアカシアで、とげが邪魔で登りづらかったものだった。これを目印に家の位置を探すのだ。
それにしてもずいぶん草木が茂ったものだ。十数年前とさえ、ずいぶんと違っている。自分の家がどの辺りか特定できないので。裏の長屋のあった辺りの位置を先に見定める必要がある。ここには,下山順一がいて、裏手のがけの上に大麻がたくさん自生していた。子供ながらに,それが麻薬の原料であることは知っていた。
「ここにはにわとり小屋があった」「ここには井戸があったよね」などと独り言を言いながら進む。
がけの縁をスキーで辿りながら、俺はがけの下に大きな家を発見して、思わず歓声を上げた。子供の時に見た眺めとまったく変わらないように、それは見えた。十数年前に来たときもそれは見えていた筈だが、他の多くのものに見とれていて覚えていないのだ。
俺のいた辺りの位置はやがてわかった。それにしても広大に思えた家の周囲は、何という小さな空間であったことか。家から水汲み場まで10メートルもない。トイレの裏を流れる下水溝の跡、かまくらを作るたびに近所のガキに壊された畑の広場。懐かしい。今は無い父や母と豆の収穫を喜び合ったのが、昨日のようだ。
生まれて初めて滑った小さな小さな斜面も水没する前にもう一度滑ってあげよう。47歳の俺が、3歳の頃に初めて滑ったゲレンデなのだ。当時は多くの子供らがここで滑って楽しんだ。そりも良くやった。世話になった多くの子供らを代表して、今、滑り納めをしてあげよう。
そして,言わせてもらおう。
楽しい思い出をたくさん与えてくれてありがとう,俺の小さな谷。
家のあった辺りでスキーを椅子にして座り、野菜ジュースとパンの昼食をした。直ぐ目の前に、ネコヤナギの芽が膨らんでいるのを見つけた。俺はそれに見入った。
子供の頃、俺は春になると、必ずネコヤナギを家に持って帰った。ネコのつくものは何でも好きな少年だった。そして,春一番のネコヤナギは家の恒例の飾り物だった。そんなことも思い出した。
仏壇の花が欲しかったので,少し手折って室蘭へ持ち帰ることにした。
小学校にて
少し時間があるので学校に寄る前に衣料品店に寄った。学校の記章が無いか尋ねると,もうとうに扱っていないという。
小学校の玄関は開いていた。
ネコヤナギの水を貰いに上がり込み、ついでに廊下に張り出されている昔の写真を見ていると、36年度卒業の菊組の写真に俺の姿があって嬉しかった。
クラスメートの顔も多くは記憶にあって、自分自身でも意外だった。
記憶と違うのは、61人だったはずのクラスなのに、50人しか写っていないということである。なぜなのか。
2階の窓から外を見ていると、太った子供が校庭の雪をかき分けてこちらに来るのが見えた。窓から見ている俺に気づいたようだが、そのまま学校に入ってきた。
玄関に降りた俺は、子供に声をかけた。
「忘れ物かい?」
「スキーを取りに来たんだ」
とその子。
「おじさんは鹿島小の卒業生?」
なかなか鋭い。
「うんそうだよ。よくわかったね」
「おじさんみたいな人、時々くるよ」
「どこでスキーをするの?」
「後ろに見えるしょ、あの山の白くなっているとこだよ」
「・・・・・・!リフトか何かあるのかい?」
「ロープトゥがあるよ、ゲレンデの端に」
なんということだ・・・・・。
昔とまったく同じではないか。
「おじさんも滑りたくなったな。一緒に車に乗って案内してくれ。雪の校庭をこいでいくのは大変だろう」
というと、この子は喜んでドアを開け、後部座席にスキーを放り込み、助手席に乗り込んだ。
「この車はシャリオでしょ。お父さん、これと同じ車に2回乗ってたよ。今は別の車だけど」
変わらないスキー場
ゲレンデは近かった。
しかし、ゲレンデは予期していた以上に大きかった。見覚えのあるロープトゥが、40年前と同じ場所にあった。昔にタイムスリップしたような気持ちになった。
11歳まで,ここで何度スキーをしたことか。そう、この子くらいのときに、たくさんの友達と一緒によく滑ったものだ。
「君の名は何ていうの?何年生なの?」
「吉田長。5年生だよ。おじさん良かったしょ。懐かしいしょ。おれと会ったからこれたんだよ」
「うん,はじめ君のお陰だ。本当に懐かしい。どうもありがとう」
ゲレンデには、2人の子供と1人の大人が、先に来ていて滑っていた。我々と都合5人、料金ただの貸し切りスキー場である。
数えるほどの人口しかいない町のスキー場の雪は、中途半端なしまり具合でけっこう難しいコンディションである。先に来ていた長君の友人の一人は、平山健一といって小学4年生。もう一人はサトルと呼ばれていた。滑っていた大人は、数年前に退職してからスキーを始めたと言うが、その割には上手な人だった。昭和11年生まれだという。
40年ぶりのロープトゥは、当然のことに昔と同じ手強さでもって乗り手に対してくる。
先のおやじは、このロープトゥで疲れ果ててしまって、練習がはかどらないというが、本当だ。年配者には辛いことだろう。
長君は、ストックは邪魔だと言って持たないで滑っている。が、スキーは下手である。ボーゲンで真っ直ぐ滑れないのだから、夕張の子供とも思えない程だ。平山健一君は、雪の柔らかさから来る若干の後傾姿勢を直し、ストックのリズムを覚えれば格好良くなると思えたので、一緒に滑りながらストック、スキーの切替え、谷まわりを3点セットで教えると、見違えるほど滑りがなめらかになって、くだんの親父が感心している。
「子供の上達はすごいもんだ。2,3回滑っただけでうまくなっているのがわかる」
そうなのだ。健一君も長君も滑りを見る限りでは、十分指導を受けているようには思えない。健一君が聞く。
「おじさん上手だね。どうして上手なの」
「おじさんは大夕張出身だからスキーは上手いのさ。どこで滑っていても、聞かれたらそう答えているんだ」
40年後の後輩たちへ
長君も少しずつやる気が出てきたので、こちらにはひざの使い方を教える。熱心にやっているが、時間の経つのは早い。ちょっと1時間のつもりで始めたスキーだったが、瞬く間に1時間が過ぎてしまった。名残惜しいが、これ以上ゆっくりしていては、————————–。思えばここから室蘭は、札幌に行くより遥かに遠い。
2人に礼を言う。
「どうも一緒に遊んでくれてありがとう。一緒に遊ぶのもこれが最初で最後だ。写真送るからね。手紙も出すからね。スキーうまくなれよ。夕張の子供なんだから」
「おじさん,また来ればいいしょ」
「なかなか遠くてね。冬はもう無理かな」
ゲレンデの端でスキーを外しているところに、サトル君がようやくスキーを持って戻ってくる。可愛そうなことをした。この子とだけは一緒に遊ばず、話もしないでしまった。
帰りにはもう映画祭に寄る時間は無かった。しかし俺には,毎年続けられる映画祭より、長君や健一君と一緒の時間の方が遥かに楽しく、貴重な時間だった。
どうもありがとう君達。元気でね。
大勢人がいるところでは意地の悪い奴もいる。めげないで生きれよ。
俺と同じく、小学生にして大夕張を出なくてはならなくなった子供たち。この手紙が着いたら,返事の便りをしてくれよ。
平成9年(1997年) 記