昭和28年7月18日 稚児祭 千年町高田商店前にて

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よく見ると写真の表札の左下に「三二番」という札がかかっています。この写真を巡って大夕張掲示板で、次のようなやり取りが行われました。長くなりますが、引用します。

昭和28年7月 稚児祭り 千年町高田商店前にて

 [Res: 93] もう一枚 お稚児さん(S28年7月) 投稿者:飯田雅人 投稿日:2003/11/15(Sat) 00:22

 

もう一枚 お稚児さんの写真です。昭和28年7月です。
こちらは,どちらかの民家でしょうか。表札のそばに三二番という札がかかって
います。

 

[Res: 93] Re: 昭和29年7月18日稚児祭 投稿者:田中 紀子(馬屋原) 投稿日:2003/11/15(Sat) 11:06

 

なんと懐かしい写真です、幼い頃の近所のおじさん、おばさんが沢山写っております、何となくこの中に私も居るような気がしますが、いまいちこれと決める事が出来ません。

お寺の山岸住職さん、おひげが立派でした。黒着物に袈裟を掛けている女性がお嬢様です。この方に私は池坊のお花のお稽古を付けて頂いていました。お稽古の日暗く成ってから、お寺から線路までの間が怖くて走って通った事を思いだします。

この場所は千年町の高田商店(日用雑貨)の前ではないでしょうか?細川宅の隣りです。劇場斜め前にありました。

写真を撮るアングルとしては消防会館前が広いので便利だったのではないでしょうか。子供の頃の原風景が走馬灯のように思い出されます。

 

[Res: 93] 訂正 投稿者:田中 紀子(馬屋原) 投稿日:2003/11/15(Sat) 20:13

 

お寺の住職のお名前、山平さんでした。

写真の表札のそばの32番は電話番号と思います。
我が家は55番でした、当時は交換手を介しての電話通信でした。市外に掛ける時は交換に頼んでから電話を切って待っていました。混んでいると何時間も待つ事がありました。

交換は大夕張郵便局の中に有りました、
あのころから見ましたら、今の時代の携帯電話随分進化したものですね。

 

[Res: 93] Re: 昭和29年7月18日稚児祭 投稿者:久々湊眞一 投稿日:2003/11/16(Sun) 22:05

 

ここは、目印が無く手も足も出ませんでした。田中さん、さすがですね。

 

[Res: 93] Re: 昭和29年7月18日稚児祭 投稿者:田中 紀子(馬屋原) 投稿日:2003/11/17(Mon) 10:55

 

さすがと言うことは、年寄りと言う事かな。?

なにせ60数年生きていると昨日、今日の事は忘れ易いのですが、古い事、昔の記憶は案外はっきり覚えて居るものです。目を閉じると高田商店の店の中の光景が浮かんできます。

のし袋、半紙、などをよく買いに行きました。
店番のおばあちゃんが、品の良い小柄な人でした、ご主人も、おばあちゃんソックリな方でした、奥様はいつも和服で美しい方でした、余談です。

 

[Res: 93] Re: 昭和29年7月18日稚児祭 投稿者:久々湊眞一 投稿日:2003/11/17(Mon) 22:34

 

驚きと尊敬を込めて「さすがに」と言いました。私も56歳で、それ程違わないのでは?

 

[Res: 93] Re: 昭和29年7月18日稚児祭 投稿者:田中 紀子(馬屋原) 投稿日:2003/11/18(Tue) 12:08

 

久々湊様、驚きと尊敬を込めてのお言葉とは、有難う御座います。このHPには、なかなか我々の年代の方が少なくて、いつも淋しい思いで拝見しておりますので、今回のS20年代写真を拝見して嬉しくなりました、飯田さん本当に有難う御座いました。

飯田さんのお母様のご実家は何と言う方でしょうか。我が家と同じ願正寺の檀家さんのようですね。

 

[Res: 93] 願生寺の檀家 投稿者:飯田雅人 投稿日:2003/11/18(Tue) 20:03

 

願正寺の檀家うちの母方の祖父母の長谷川といいます。
ちなみに我が家は,曹洞宗で,大聖寺の檀家でした。(住職は萩野さんですね)
祖父の安造は,昭和13年から,昭和31年まで鹿島小学校の教員をしていました。母の話では,当時,宝町にあった教員住宅に住んでいたといいます。

どこのものともはっきりしなかった2枚の写真も田中さん,久々湊さんの書き込みで生き生きと大夕張の物語を奏ではじめたように思います。

千年町界隈のものと思われる写真が何点かあるので,ここ
にアップしますので,その節はどうぞよろしく御願いしますね。

 

[Res: 93] Re: 昭和29年7月18日稚児祭 投稿者:田中 紀子(馬屋原) 投稿日:2003/11/18(Tue) 23:07

 

そうですか、
長谷川教頭先生は知っております、懐かしいですね、
私が5年生の時東小学校が出来鹿島小から移転しました、

それぞれ自分の椅子を下げて皆で歩いて引越しした事を思い出します、ですから私は東小第2回卒業になります、

ちなみに校長は猿倉校長先生、担任は吉田敏雄先生(松組)

長谷川先生の家は宝町でも千年町寄りでしたので、とても近くでした。

中学の時同じ教員住宅に鹿島中の数学の新谷先生の家に夜勉強に通いました、今で言う塾みたいなものですね。

男子、女子合わせて8人位いたと思います、高校進学の為に数学を習いに行っておりました、楽しい時間でした。

50年位前の話です。

 

[Res: 93] Re: 昭和29年7月18日稚児祭 投稿者:蝦名 投稿日:2003/11/20(Thu) 06:00

 

もう1枚のお稚児さんの写真の前列に母方の従姉妹が写ってるみたいなのです。S23年生まれなので、年頃は調度だと思うのですが?緑町に住んでいた白石陽子です。

s24年生まれ年子で弟の正昭がいます。
私はs32年生まれですが、私もお稚児さんの同じような写真があります。

私の母はs5年生まれで鹿島小の卒業生です。長谷川先生に習ったと聞いています。
それと山平様と住職さんの名前がでていましたが、そのお孫さんが今主人の上司なのです。

山平さんのご両親は先生をしていたとか?もう色々つながりがあり、不思議ですよね。

 

[Res: 93] Re: 昭和29年7月18日稚児祭 投稿者:田中 紀子(馬屋原) 投稿日:2003/11/20(Thu) 11:00

 

飯田さんのお稚児写真の投稿から、こんなに懐かしいお話が進展しました、嬉しいですね。
「陸の孤島」と言われた大夕張だからこそ、住人皆が家族感覚のような気がします。

一人のお名前が出てくるとそこからどんどんと、輪が広がり何と素晴らしい事です。
私はS16年生まれですから、S20年代位の事からしか記憶が有りません。
S39年(オリンピックの年)には結婚の為大夕張を出ました、皆さんの祖父母様と同年代と思います、

この写真は大夕張が最高に繁栄した頃の年代です、
写真の中には山内左官のおじさんや相馬旅館の(門馬)さんのおじさんが写っていますが、今で言うならば、大夕張経済界の中心の方達でした、その頃私は幼い少女、今は智ちゃん(孫)のおばあちゃん、・・すっかり忘れかけて居た昔を次々思い出し、このHPを開くのが楽しみです。

 

[Res: 93] 鹿島中 新谷先生 投稿者:飯田雅人 投稿日:2003/11/20(Thu) 21:39

 

「輪がつぎつぎとつながって・・・」本当そうだなあ,と思って読んでいました。

そのおかげでこうしてS31年生の私と,田中さんが,こうしてお話をして,2001年のロケでは,グランドでお会いしてということにもつながっているのですね。

ところで,宝町の教員住宅に住んでいたという鹿島中の新谷先生は,祖母の長谷川(旧姓新谷)クニの弟なのです。

つまり母の叔父にあたるのですね。ですから,長谷川の祖父母と新谷は親戚で頻繁に近所で行き来していたようです。

鹿島中の新谷先生は,その後,市内の東山中,道内を転勤し深川の中学校長を最後に退職されたということです。

実は,この話も,田中さんの投稿を母に見せてわかったことなのです。話がどんどんふくらんでいきますね。楽しいですね。

 

[Res: 93] Re: 昭和29年7月18日稚児祭 投稿者:田中 紀子(馬屋原) 投稿日:2003/11/21(Fri) 20:03

 

そうですか、新谷先生は飯田さんのおばあちゃんの弟さんだったのですか、大夕張を出られて何処かの校長さんになられたとは、風の便りで聞いておりました、

自分の半生で係った何人かの先生の中で、尊敬でき思い出に残る先生の一人が新谷先生です、

今この歳になって、新谷先生の懐かしいお話が出来ます事、とても懐かしく嬉しい限りです、

飯田さん有り難うございます。

 

 

 

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