平成9年 鹿島小学校閉校記念式典 『惜別の会』 | 飯田雅人
1928年(昭和3年開校)~1998年(平成9年閉校)
夕張市立鹿島小学校 卒業生 9790名
平成9年6月22日(日)に夕張市立鹿島小学校で閉校式、そして惜別の会がとりおこなわれました。私も参加してきましたのでその時の模様を伝えたいと思います。
不覚にも、平静な気持ちで参加することはできませんでした。朝,到着してから,帰るまでに何度こみ上げてくるものがあったかしれません。この時ばかりは,一人で出かけていったことを後悔しました。
帰る頃になってようやく平静さをとりもどしたかな、という感じがします。個人的な感情の先走るレポートになってしまうかもしれませんが、お許しください。
(1)朝,鹿島小学校グラウンドで
自宅を8時半に出ました。私の住む札幌市西区から夕張市鹿島までは通常で2時間ちょっとかかりますが、日曜の朝ということもあり、10時20分には到着しました。旧大夕張駅前の横断歩道橋の手前を左折すると鹿島小学校です。グラウンドには、すでに車がいっぱい並んでいました。Rv、ボンゴ車も多く、家族や親戚、あるいは仲間で来ているようでした。車は後から次々にグラウンドに入ってきていました。
車から降りて印象的だったのは次のような光景でした。
私がいた頃から校庭には一本のイタヤカエデの木が立っていました。鹿島小にいた方だときっと皆さんご存知の木です。その前で記念写真をとりながらにぎやかにしゃべっている5、6人の50代の女性のグループ、また,そのグループとは反対側では、たった一人木のそばに立ち、腕組みをしながら校舎をじっと見つめている中年の男性。グラウンドのかつて教会のあった土手の上を懐かしそうに歩く老年の夫婦。そんな人たちの様子を見ていると、ああみんな同じ思いなんだ、こうして心の中の大夕張の思い出と向かい合っているんだと思うと、こみげてくるものがあり、気持ちを落ち着かせるのに大変でした。しばらく私も土手に座りぼんやりしていました。
小学校の玄関前では受付のテントが二つ並んでいました。受付をしている大勢の人達の声が、グラウンドの土手に座っている私のところまで聞こえてきます。ここ数年私が大夕張を訪れたときに聞こえてきたものといえば、小鳥の鳴き声くらいなものだったのです。
「こんなに人の声にあふれるにぎやかな大夕張はいったいいつ以来だろう」「それもこんな廃校という時になって…」そんなことを思うとまた涙がとまりませんでした。
(2)28年ぶりの母校校舎
受付を済ませて小学校の中に入りました。卒業以来ですから、28年ぶりです。玄関を入ってすぐの2階、3階に上がる階段の細い鉄製の手すりは覚えていました。また,2階にある職員室の場所や1階の音楽室の場所も、昔からそこに合ったことを思い出しました。つまらないことですが、そんな一つ一つの細かいところから,記憶が次第によみがえってきました。
大勢の人達がビデオやカメラを持って学校の中を懐かしそうに歩いていました。同じような年代の同期生の控え室が各教室に割り当てられていました。私は40期卒業なので、その控え室に行ってみました。2.3人の人がいましたが,知っている人はいませんでした。(もっとも知っている人と会ったり、すれ違っても28年ぶりですから、わからないだろうというのが、実感でした。)他の控え室では、あちらこちらで、教室の黒板をバックに集合写真を撮っているグループがいて、「○○ちゃんかい、久しぶり~」そんな言葉が交わされているのが聞こえてきました。
しばらく控え室にいたあと、校内の思い出をたどりながら歩いていました。友達と立たされた教室、教室の窓から見える風景、友達とけんかした廊下、紙石鹸で手を洗った水飲み場、開校30周年とかかれた等身大の鏡、何もかもが昔のままでした。
そのうち、「式が始まりますので,体育館へ移動してください」の校内放送が流れたので、人の流れに乗って、体育館へ向かいました。窓から外を見ると、まだ、グラウンドや校舎の近くに何人もの人たちがいて、懐かしむようにそこここを歩いたり、校舎を背に記念写真を撮っているのが目につきました。
(3)鹿島小学校閉校式
会場の体育館に入ると正面のステージの壁面には、「夕張市立鹿島小学校閉校式」の大きな文字がかかっていました。文字の下には,大きな板に書かれた絵がはってありました。夕張岳を真ん中にすえ、遊ぶ子供達の姿が大きく描かれている絵です。日の丸も君が代もないのが、最後まで鹿島小らしいと思いました。
ステージに向って左には昨年閉校した鹿島中学校の校歌、同じく右には鹿島小の校歌が掲げてありました。また,体育館の横には、「思い出いっぱい。そして永遠(とわ)に…」という文字。
ステージの左右に報道各社のテレビカメラが6台きていました。(翌日午後6時から、HBCテレビ「テレポート6」という道内番組で特集を組んで放送していました)
全員が体育館に入りきるまでに時間がかかっていました。私が着席したしばらく後まで,席をつめて前の方に座ってくださいという放送が入っていました。それでも座れず後ろで立って参加していた人たちもいたようです。
次々に会場に入ってくる人達を見ていると中高年の方が多いようでした。同級生同志来ている人たちもいるようで、近況報告・住所や電話番号の情報交換が私の近くでも、さかんに行われていました。すでに50代後半と思われる女性が,「○○ちゃん元気だった!!」「うん△△!あんた今どこに住んでるのさ」とお互いをちゃん付けで呼んでいました。でも全然違和感はありませんでした。きっと気分はもう○十年前に戻っているのでしょうね。
式は次のような次第で進んでいきました。
(1)修礼
(2)開式の言葉
(3)校歌斉唱
「校歌斉唱!」と司会の声が響いた時,会場には一瞬,照れたような,いまさら歌うのがなんとなく気恥ずかしいというような笑い声がおこりました。しかし,ピアノの伴奏が流れると会場からは,自然に「太古の森の~」とう懐かしいあの校歌が湧き起こりました。私は出だしから涙声になってしまいました。おまけに私の3列くらい後ろで歌っている人がともて力強い張りのある声で聞かせてくれます。ぐっと胸に迫ってきます。「~きたわんかいなーああ 大夕張」というところはもう完全にだめでした。ポロポロ涙が落ちてしまい歌うことができませんでした。校歌を歌い終えた後,あちらこちらでハンカチを手に涙をぬぐう人がいました。校歌っていいものだ,子供の時に歌ったのは,やっぱり身にしみついているものだと,あらためて感じました。
(4)式辞
・夕張市教育委員会教育長 土屋義次さん
(5)挨拶
・夕張市長(代読) 中田鉄治さん
・空知教育局長 山下賢治さん
・鹿島小校長 山岸武司さん
・協賛会会長 高橋勝夫さん
市長式辞は代読でしたが,中田市長はその後,式場に姿を見せていました。式辞や挨拶の中でふれられていましたが,鹿島小は1928年(昭和3年)に開校。最盛期の1951年(昭和26年)には50学級2656人の児童数を誇ったそうです。昭和48年4月の三菱大夕張炭鉱の閉山とともに,児童数が激減。卒業生9790名のうち,昭和47年までの卒業生の数が9400,それ以降の数が300なのだそうです。石炭産業の盛衰とともに鹿島小学校もその歴史の足跡を刻んできたことがわかります。そして,シューパロダムにより,地域全体がなくなろうとしている今,小学校が閉校式を迎えている。私は小学校の教員ですが,地域がなくては「学校」は,存在し得ない,住む人なくては「学校」自体の意味がなくなる,当たり前といえば当たり前ですが,都会に住んでいるとつい忘れがちなそんな事実に思い至りました。
どちらかというと聞いているとさびしい話が多かったのですが,来賓方々の現在の12名の在校生児童に対する温かいはげましや,山岸校長の「美しい故郷鹿島の思い出は全国の9790名の鹿島健児の心に生き続けます。誇りをもって生きていってください」という言葉が印象に残りました。
(6)電報披露
元鹿島小の先生からの長文の電文に心をうたれました。炭鉱閉山に伴い,昭和48年の夏休みの間だけで,400余名の転出児童がいたのだそうです。行く先もはっきりしない子供たちの不安そうな顔,そんな子を目の前にして一人一人の子供と惜別の情をかわすいとまもなく,別れなければならなかったつらさ,心残り,そんな先生の心情が伝わってくる電報でした。
(7)記念品贈呈
・協賛会会長より児童代表へ 木村 渉くん
(8)感謝状
かつての鹿島小学校の7人の校長に感謝状を手渡していたとき,突然,あの「ウー」というサイレンが学校の近くで鳴り響きました。会場からは,なつかしさのこもったざわめきが起こりました。
(9)お別れの言葉
おそろいの法被をきた12名の鹿島小学校の児童によるよびかけが行われました。春夏秋冬の故郷の美しさと,未来の夢を語るという構成。そして,先生方と子供たちによる「この街に生きて」という合唱のあと,鹿島太鼓を披露し,「鹿島小のたくさんの友達と思い出を忘れません」と別れを告げました。
1年生から6年生までの笑顔のかわいい12人の鹿島の子。会場をうめた900余名の青年から老人達。それぞれの胸に鹿島の思い出が駆け巡った一日だったと思います。 (この日感情を突き動かされた私は,次の日の月曜日精神的にすっかり疲れてしまいました・・・・・)
(10)閉式の言葉
(11)修礼
式の終了後,しばらく時間があったので,学校の外を歩いてみました。玄関や学校前のところにもまだまだ多くの人たちがいました。
(4)惜別の会
テーブル毎にビールとおつまみが用意され,会は始まりました。期ごとにテーブルが指定されているというわけではありませんでしたので,最初どこについたものやら戸惑いました。とにかく人がいっぱいいて混雑していました。別の車で伯父達や叔母,祖父も来ていたのですが,会場では見つけることもできませんでした。
(1)開会のことば 協賛会式典部部長 栗山明典さん
(2)主催者挨拶 協賛会副会長 岩野孝一さん
(3)来賓挨拶 北海道議会議員 石川十四夫さん
夕張市議会議長 池田 学さん
(4)開宴・乾杯 夕張市教育委員会委員長 吉田秀子さん
(5)宴
期ごとの記念撮影が行われていました。中々自分の卒業の期がわからないのか,放送でよびかけてもあつまらない期があったり,和気あいあいとマイクで「○○ちゃんおいで」と呼びかけたりする結束の強さを感じさせる期もありました。
(6)閉宴・乾杯 鹿島小学校同窓会長 松原 等さん
(7)閉会の言葉 協賛会式典部部長 栗山明典さん
会は続いていましたが,私は,会の途中で抜け出して,校舎の中をじっくり歩いてきました。また,学校を出て,富士見町の辺りをかつて私が住んでいた3丁目33番地のブロックまで歩いたりしてきました。同じように惜別会の混雑を避けて,教会前の石段に座っている人,小学校の玄関を背に記念写真をとっているいる人,様々でした。
午後3時半頃私は大夕張を後にしました。鹿島小学校は平成9年度3月31日をもって学校70年の歴史に幕を閉じます。地区住民の多くも今年中に鹿島地区を離れることになっているそうです。
先にも書いたように,900余名の方々が参加していました。その他,地元の住民の方々,関係者…。1000名近くの人々がこの日,鹿島小学校に集まっていました。地域の人口約400人。児童数,12名,職員数10数名の学校です。その中で,会を行うことはたいへんな労力のいることだったろうと,頭のさがる思いです。関係者の皆様ありがとうございました。
最後に、閉校式の中で、鹿島小学校最後の在校生12名にによって歌われた歌「この街に生きて」です。当日のうた声です。録音は途中で切れてしまっていますが、胸に切々と伝わるものがあります。ぜひ聞いてみてください。
「この街に生きて」
(作詞 松井牧子 作曲 花渕 智之)
1 こぶし みずばしょう 芽をふくやなぎ
カワセミ アオサギ 映すはシューパロ
この川にながれくる 遠い日の汗と涙
ズリ山にこめられた 遠い日の絆と力
雪がとけ
花が咲き
実をつけて
夕張岳のふもとの季節はめぐる
うけつぐ命 いつまでもいつまでも
2 長屋 坑口 雑草に埋もれ
山なみ 刻み 広がる道
この土地で ときをみつめ 生きてきた 人々の知恵
この谷にメロン畑 響きゆく わたしたちの声
雪がとけ
花が咲き
実をつけて
夕張岳のふもとの歴史はつづき
うけつぐ力 あしたのあしたの夢へ
(1997年8月 記)