1951年(昭和26年)
- 1月 10日,鹿島裏千家松風会(茶道)設立。萩野恭子(s31年時会員17名) 18日,成人祭記念NHKのど自慢コンクール(協和会館)
- 2月 カッペ採炭開始。 10日,仮称鹿島第2小学校(鹿島東小)校舎新築工事竣工。 13日,南卸で自然発火,傷者12人。
- (春) 鹿島開拓団設立。団長吉田藤之助以下12名で開墾開始。
- 4月 19日,錦町山手に天理教大夕張分教会設置(設立者真鍋正夫。昭和13年大夕張炭鉱に奉職,以後布教に従事し,昭和23年布教所を設置し,分教会の創立をみる。) 鹿島中校舎増築(普通教室2,石炭庫増築)
- 5月 1日,弥生町少年消防クラブ(佐々木晃41名) 10日,鹿島東小猿倉義松校長。 31日,鹿島東小校舎完成。教室12,校長室,体育館,給食室など木造2階建(480坪1584平方メートル)。 鹿島消防団長肥後国吉退任。4代目団長新井格二就任。
- 6月 1日,鹿島小通学区域の内,鹿島第2小(仮称)分離により,宝町,錦町以南の地域である千年町,常盤町,明石町が除かれる。 13日,鹿島小より児童614名鹿島第2小(仮称)に移籍。 20日,鹿島第2小(仮称)の校名が夕張市立鹿島東小学校と決定。(校名募集当選者中島裕・三井京子)第1代PTA会長中島政雄 24日,鹿島東小学校開校式(12学級,児童数609 職員13)。通学区域を千年町,常盤町,明石町,第2農場,鹿島開拓とする。 分離後の鹿島小児童数1910 35学級。
【当時をふり返って 濱出榮子(『鹿島小閉校記念協賛誌』より)】
私は昭和24年の秋に鹿島小学校へ転勤してきました。
当時の鹿島は石炭産業の興隆期で、町は人口増で昼も夜も商店街には人があふれ、にぎやかな活気のある町でした。
小学校も児童数の増加でマンモス化した校舎は教室が足りないので、低学年は2部授業を行い、高学年は体育館を間仕切りした仮教室を使用している状態でした。
簡単な板じきりの壁で、天井があいているので、となりの教室の声や音がうるさくて、教師と子どもの対話が伝わらないため授業を進めていくことは大変だったようです。
でも11月になって、それまでの校舎の一部を占めていた中学生が、常盤町に新設された中学校の校舎に移っていきましたので、体育館の間仕切り教室は解消されたのです。
25年度に私は6年生の担任でしたが、松・竹・梅・櫻・菊・桃・藤・桐、とクラスが8クラスもありました。
当時の全校児童は2600名程でした。全校朝会などはどのようにしていたのか思い出せません。
昭和26年に、このマンモス学級解消のため、鹿島にもう一つ小学校が建てられました。東小学校と名称がつけられました。
千年町、常盤町、明石町が東小学校の校区となり、各学年2学級ずつ編成され、合計614名児童が6月に東小学校に移転しました。
私もその中の2年生の担任で、一緒に移りました。
ふたたび昭和30年には宝町、錦町、泉町が東小学校の校区に加えられ東小学校へ移りました。
鹿島小学校は2つに分かれていた職員室が、もとの一つにおさまり、2部授業も解消されていったのです。
- 坑内ガス抜きを実施。 >客車ホハ1,2入線。
- 7月 1日,鹿島東小補食給食開始。
- (秋) 鹿島開拓で12戸全員でつり橋を建設し,共栄橋と命名。農耕馬5頭導入。
- 9月 18日,鹿島中校舎周辺に植樹(桜,プラタナス等150本,PTA寄贈)。
- 10月 1日,北菱産業株式会社設立。 28日,夕張北高等学校鹿島分校定時制第一回卒業式挙行。 緑町少年消防クラブ(日野政人40名) 大夕張一般労働組合機関紙『一般労働報知』発刊500部 千年町~明石町間の道路工事着手(三菱が資金650万提供)。 鹿島中,2教室,石炭庫の増築。
- 清水沢・南部間道路完成。
- 南大夕張からダム建設地に向けて道路改良工事。
- 市営栄町プール設置。
- 井出組(代表者沢田金二)千年町で設立。
- 下夕張森林鉄道延長工事着工。
【夕張市人口 100537 : 大夕張地区人口 17910(鹿島) 2464(南部) 】
【社内炭砿人員:4.022】
【出炭量:422.100t 累計:12.699.819t】