大夕張つれづれ■冬の寒さ■|高橋正朝 #12
生れ故郷である子供のころの大夕張の真冬の気温は、おそらくマイナス10度ぐらいは普通だったでしょう。
風呂屋から家に帰る時、濡れた手ぬぐいの端を持ってグルグル回しているうち少しずつ固くなり、近所の友達とその固くなった手ぬぐいでチャンバラをやりながら家に帰っていました。
目を薄目にしていると、まつ毛が1秒ぐらいくっつきそうな感じになる寒さでした。
せめて、2~3秒間ぐらいまつ毛がくっつかないかといつも頑張ってみましたが、それは無理でした。
私は子供のころ、何の益もないことに努力する癖がありました。
還暦を過ぎた今でもその癖はかわらない。
私は20年ぐらい前に、仕事で中国の大連に3年間おりましたが、真冬の早朝で大体マイナス15度ぐらい、残業で夜の10時ぐらいに寒暖計をみても気温はやはりマイナス15度ぐらいでした。
そのとき、目を薄目にしてみましたが、まつ毛がくっつきそうな感じにはなりませんでした。
このとき、 ネッパルという言葉を思いだしました。
大夕張時代のそのことを考えると、昭和20年代と30年代前半の大夕張はかなり寒かったようです。それ以前はもっと寒かったでしょう。
東小学校から明石町に帰るとき、常盤町を通り過ぎて帰る場合と、千年町を通って帰るケースがありました。
東小学校3年生か4年生の2月下旬もしくは3月上旬、千年町を通って帰るとき、東小学校の前の坂を上った所から、道路の端のほうに、雪の洞窟ができており、それをくぐって行ったら、何と、千年町の劇場近くまで続いていました。
多分、千年町の子供たちが大勢で造ったんでしょうね。
子供時代の殆どの友達や私などは、親から勉強しろ、と言われなかった。
家が狭いこともあり、うるさいから外に遊びに行け、と言われていましたから・・・・・・
高橋 正朝 ( たかはし まさとも ) 2012/02/10 _ 11:38:46
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。