大夕張つれづれ■小学生の私■高橋正朝 #18

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 大夕張では、私の年代での夏休みが始まるのは、7月の20~25日の間でした。
 二学期が始まるのは8月の20~25日でした。

 マンガやテレビで、東京の二学期が始まるのは9月1日からだと知ったときは、北海道の生徒は夏休みを1週間損しているな、と思ったものです。   
 そのときは、東京近辺の生徒の冬休みが、雪国より短いことを知りませんでした。

 鹿島東小学校3年生の夏休みが始まる前日、帰るとき、どういうわけか、私が1人だけだったことがありました。
 

 低学年の殆どの生徒は、常盤町側の玄関から出入りしますが、私がその玄関に行ったときは、校内は静寂で、外からはセミの鳴き声だけ聞こえてきます。

 玄関から見た外の景色は、 まぶしい初夏の光にあふれていました。廊下から玄関の土間にゴムの短靴を放り出しました。そのゴムの短靴がポーンとはねて、偶然に左右揃って土間に並びました。

 それで、靴に左右があるのは、自分の足の形状に対応しているからだと、生まれて初めて知りました。私にとっては大きな発見でした。それまでは、靴の左右の形状を全く無視して履いていました。

 時計の見方を知ったのも、どうも小学校3年生ぐらいだったようです。   
 私が小学2年生の夏休み前後に、父親が私を叱りながら時計の見方を教えていた状況は憶えています。

 しかし、応用質問されたとき、その直前に教え込まれたときの時刻を回答するものだから、父親もとうとうさじを投げたらしい。

 母親から聞いたことでしたが、後年、父親が、「 学校の先生はたいしたもんだ。時計の見方を知らなかった子が、ちゃんと時刻を告げれるようになったんだから 」と言っていたそうです。

 今でも、私はトロイけど、子供のころは相当ひどかったらしい。

 入学した東小学校1年生のときの担任の先生は、長谷川ヒロコ先生でした。 
6月ぐらいから、時々4~5人の生徒が、授業が終わったあと残されました。 
理由は、 出来が悪いから補習です。

 残される4~5人は、顔ぶれはその日によって違いましたが、私は必ず残されるメンバーに入っていました。

 その補習のなかで憶えているのは、長谷川先生が、手の指を使って私に教えている場面です。先生が、私に懸命になって教えてくれているのが、子供心にも分かりましたが、内容は全く理解できなかった。

 足し算か引き算かまでは覚えていませんが、多分二桁の計算だったのでしょう。
 肌寒くなった秋には、残された記憶はありませんので、その補習も9月か10月には終わったようです。

とは言っても、私の出来がよくなったわけではないのは、上記の3年生のときの話が証明しています。 


高橋 正朝 ( たかはし まさとも ) 2012/07/20 _ 17:24:59

昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。


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