校庭のイタヤカエデと旧大夕張駅
2020-05-27
2023-05-15
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平成3年(1991年)冬
雪のイタヤカエデと旧大夕張駅 【飯田 雅人】
平成元年4月、それまで夕張市内で教職を務めていた伯父が、鹿島小学校の校長として赴任することになりました。
元鹿島東小学校の教員だった叔母は、転勤してからも大夕張から南部小学校に勤務し、その間我が家に同居していました。
昭和38年に大夕張を離れて、その後伯父と結婚しました。それ以来の大夕張ということになりました。
かつて鹿島小学校に昭和13年から昭和32年まで、20年近く勤務していた祖父も、当時札幌市に健在で、その縁に、皆驚いたものでした。
叔母の一歳年上である私の母も、そのとき数十年ぶりで、大夕張を訪ねることができたことも覚えています。
この写真は、伯父夫婦が、転勤で大夕張を離れる平成3年(1991年)の冬の写真です。真っ白い夕張岳と、木の下に顔を出しているグラウンドの土が、春の訪れを感じさせます。
あの巨大な小学校の門柱はなく、旧大夕張駅の建物の屋根は赤く塗替えられています。
鹿島小学校のグラウンドに立つイタヤカエデが、屹然と雪の中に立ち、枝を広げています。
親の都合で札幌に転校、明確な進学意識もないまま東京の大学進学となった。
3~4年生頃神田川という歌が流れてた。彼女と一緒に風呂屋に行ったが出る合図は口笛だった。
だから彼女が震えて待つ事はなかった。
自分に足りなかったのは九州の彼女の親を説得する力がなかった事だ。
今思えば親の都合で札幌に転校、確たる進学意志もなく東京に出た。
大学3~4年頃神田川という歌が流れてた。彼女と一緒に風呂屋に行ったが出る合図は私の口笛だった。
だから長く待たせる事はなかった。
彼女は九州の人で海を何度も渡るのは親は絶対に許さないと最後まで悲観的だった。
自分に男としてもう少し勇気があったらと今日歌を聴いて思い出した。
イタヤカエデという名前の木なのか、そんな事は考えもせず遊んでいた。野球で駅の
方に大きなホームランを打った君は元気かな?
神社の所で山を何度も描いていた。5年前までは実家にあったのだが。
5月19日に大夕張に行ってきた。昔とは随分違ってきた。前岳は地肌が見えて、夕張岳も白く見えるのは上半分のみ、裾は地肌が黒く見えていた。雪が少なかったんだね今年は。昔は5月末の運動会の時期でも夕張岳は真っ白だったと思う。グラウンドだって運動会の直前までは雪解け水で泥どろだったはず。校庭のイタヤカエデもこの20年位?は全く成長していないみたい。特に今年は大きな枝が2本、枯れている。木の洞を塞いでいた板も破れてアリが出入りしていることや木の幹が苔むしていることと併せて樹勢がかなり落ちてきたようだ。もう長いことはないような気もします。
今回、改めて思ったのは、大夕張は美しい場所であること。オオジシギも既に渡ってきて、立った1羽ですが派手なディスプレイを繰り広げていました。今や石狩川の河川敷より大夕張の方がオオジシギは多い。学問的にはこれは、画期的な出来事なのかもしれません。小さな鳥が6日間も休まず海の上を飛び続けて、オーストラリアからはるばる北海道に来るのです。アライグマがいない(?)大夕張を目掛けて・・コロナよりも遥かに過酷な生き方がそこにある。
この場所、鹿島小学校グラウンドには、今も自家用車でいくことができるようですね。
jUNさんの投稿を読んで、もう10年以上も会っていない、余命幾ばくもない(それでも人間の寿命に比べればまだまだと思いますが?)イタヤカエデを訪ねてみたいなという気持ちになりました。