大夕張つれづれ■常盤町の三つの橋■|高橋正朝 #73
私の鹿島東小学校時代には、常盤町には橋が3本架かっていた。東小学校のすぐそばの鹿島橋は、1年生の頃にコンクリートの橋になったような気がするが、確かな記憶ではない。
常盤町から千年町に行く道の暁橋は吊り橋だったが、ずいぶん揺れる吊り橋だった。2、3人ぐらいで渡ると、たいてい誰かがその橋を揺さぶった。誰が揺さぶったのか、今となっては名前も顔も思い出せない。
明石町へ行く道の常盤橋も吊り橋だったが、これは小学生のとき、架け替え工事をした。通行禁止期間は短かったと思う。
その工事の間は、千年町経由で東小学校に通った。
暁橋も架け替えたらしいが、明石町に住んでいたうえ、通学路でもなかったので、全く記憶にない。
その頃は、まだまだ貧しい時代だったが、子供心に社会の活気が感じられた。それは、土木工事が盛んに行われ、道路事情がどんどん良くなっていったから、目に見えての実感だった。
ただし、アスファルト舗装は、千年町から大夕張の間の一部だけだったが、 それは些末なことだ。
幼稚園に通っていたときと比べて、道路が格段に良くなり、小学校3年生のとき、明石町や常盤町から大夕張にバスが走るようになり、年端もいかない少年はバスを追いかけて排ガスの臭いを嗅いでいたものである。その排ガスの臭いを嗅いでいた少年のなかには私も交じっていた。
鹿島東小学校2年生のとき、1学期が始まって1~2カ月ぐらいしてから、弁当持参で学校に行くことになった。教室が足りなくなり、2部制で授業をすることになったからだ。
なんだか大人になった気分になり、弁当持参が嬉しかったことを覚えている。
明石町の家を出るのは10時ぐらいだったような気がする。朝は普通に起きるので、出発するまでの時間は、ただただボケーとしているだけだったが、ある日、学校に行くのが面倒な気分になったことがあった。
それまでの生活習慣と違ったので、体のリズムが狂って大儀になったのだろう・・・・・・。ずる休みはしなかったが・・・・・・。
常盤町の坂を下るまでは足が重いのだが、鹿島橋を渡るときは、鈍い気分は霧消していた。級友とおしゃべりする楽しさが待っているからだ。この弁当持参は1か月続いたかどうかの短時日だった。
鹿島小学校の方はどうだったのだろうか?同じ時期に、東小学校と同様な2部制を実施したのだろうか?鹿島小学校出身者に訊いたことはなかったが・・・・・・。
常盤町から、暁橋を渡って急な坂を登って行くと、ちょうど、千年町の大夕張劇場とサトミ家具店の間の道路にでてくる。
その辺は、ゴミ捨て場にもなっており、時々、映画フィルムの切れ端を捨てたのを見つけることがあった。10cmぐらいのフィルムだと、動きのコマの変化が分からないが、30cmぐらいの長さで人物が映っていると、静止画の変化が見てとれた。
宝物を見つけた気分で家に持ち帰ったが、1~2週間でどこかに消えてしまったようである。大事に保管した、という記憶はない。宝物を見つけた気分というのは、その場だけで、その気分は長続きしなかったようである。
要するに、飽きっぽいということで、老人になった今でもその性癖は同じだ。
高橋 正朝 ( たかはし まさとも ) 2017/05/08 _ 23:03:36
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住