大夕張つれづれ■10円玉■|高橋正朝 #74
同居していた私の母の妹、すなわち叔母が、私が鹿島東小学校1年生のときに結婚し、栄町に住んでいました。
結婚した相手は 栗田昭作。大夕張鉄道の機関車の運転手でした。
表札のすぐ横に、秋田県人会 という小さな木札がかかっていました。会場が持ち回りで時々県人会が開かれていたようです。
三菱炭鉱には、色々なところの出身者がいて、県人会の木札が、表札の横に掲げられている世帯が多かった。特に、東北6県の出身者が多かったようです。
叔母の家には、時々遊びに行きましたが、絵地図を見ても確かな場所は思い出せない。
商店街の通りだとか、公園とか浴場とか、そういう目印になるようなものは付近にはなかったのでしかたがない。
栗田一家4人は、5年ぐらいして東京に引っ越していきました。叔母たちが大夕張を離れる時代は、景気が良かったころの雰囲気がまだ残ってはいたが、すでに斜陽。
私の物心がついてから、すなわち小学校低学年時代が最も景気がよくてピークだった。なにしろ、石炭は、造船業、鉄鋼業、とともに日本の重大産業だった。
三菱大夕張には無関係だったが、三井系の北炭の 荻原吉太郎 は政治の世界にも顔が利いたようである。
幼稚園に汽車で通っていたが、客車の座席や床のあちこちに、10円玉がよく落ちていた。それを見ても誰も拾わなかった。当時の10円で、大きい箱のほうの森永ミルクキャラメルが買えた。小さい、半分の大きさの箱のミルクキャラメルは5円だった。だから、10円玉は価値があった。
私は拾いたいと思ったが、誰も拾わないのにそれを拾うのは子供心に何となく憚れた。
鹿島市東小学校に通い始めた最初の2~3か月は、明石町から千歳町に汽車で行き、そこから東小学校に歩いていたのだが、そのうち自宅から学校に直接歩いて行くようになった。
明石町の子供たちや、開拓の子供達でさえも、徒歩通学をしているのが大多数だったので、バツが悪くなったためである。汽車通学のときも10円玉は座席や床に相変わらず落ちていた。
それが、翌年、祭りなどで明石町から大夕張には汽車で行くのだが、小学2年のその時には、汽車の中で10円玉が落ちているのを見ることがなくなった。
高橋 正朝 ( たかはし まさとも ) 2017/05/20 _ 13:38:47
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住