『大夕張つれづれ』転載完了しました

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 およそ二ヶ月にわたった高橋正朝さんの『大夕張つれづれ』ですが、81回をもって完了しました。

 『ふるさと大夕張』の住民登録においてあった高橋正朝さんの書込み。2006年から2017年にかけて、当時リアルタイムで読まれていたものです。

 そちらからの転載にあたっては、僭越ながら、『大夕張つれづれ』なるお題を勝手につけて、「好きに料理していいよ」という、高橋さんからの言葉に甘えさせてもらいながら、おかげで、5月16日から7月26日まで、毎日、順調に配信してきました。

 足かけ12年にわたって書き込んでいただいた高橋正朝さんの労力に多少は報いることはできたかなと、ほっとする気持ちと、ありがとうございますの感謝の気持ちでいっぱいです。

 読むたび、長い海外での見聞や体験にふれ、楽しかったことはもちろんですが、漫画家アシスタントの経験からの当時の、漫画やTV放送開始草創期のドラマなどの、奥深い話とともに、その裏には、バックボーンとして大夕張の生活があったのだなと感じました。読みながら自分自身の大夕張の記憶と対話していることもたくさんありました。

 一つのカテゴリーとして『ふるさと大夕張2丁目3番地』の中に収まりましたので、これからは、いつでもまとめて読む楽しみができます。じっくり読み返す中で、記憶の底に沈んだ大夕張の思い出をたぐり寄せるよすがになることが、楽しみです。

 連載する中で嬉しいことがありました。高橋さんの文章に出ていたことですが、私の叔母「山賀(長谷川)ひろ子」が、高橋さんの鹿島東小学校の一年生の担任だったということがわかり、それがきっかけで、叔母と連絡を取り合うことができたことです。叔母は、87歳になりますが、学校を出てすぐ、鹿島東小に赴任した時の一年生だったそうで、高橋さんのことも覚えていました。

 また、ひろ子叔母は、私の母と2歳違いで、大夕張での共通の思い出が多かったようです。母は、9人弟妹の長女で、叔母と年齢が一番近く、電話でやり取りすることが一番多かった。昨年3月に母が亡くなって電話のやり取りもなくなっていたのですが、今回のことをきっかけに、電話や手紙のやり取りの機会ができました。

 鹿島東小学校教員時代の若き東小学校の先生方の写真や、大夕張を訪れた時の写真なども見せてもらい、『2丁目3番地』に掲載しました。あらためて高橋さんには感謝します。

 『大夕張つれづれ』のロゴになっている挿絵ですが、これは、絵を描くのが好きだった祖父が、昭和13年大夕張にくる直前、沼ノ沢に住んでいた時、家から見える風景を描いた水彩画です。『茜空』という題がついていました。

 当時の沼ノ沢は農家が多かったようです。炭砿住宅の建ち並ぶ大夕張とは、また雰囲気が違いますが、鄙びた感じが気に入り、『大夕張つれづれ』の挿絵に使わせてもらいました。

 祖父の長谷川安造は、昭和13年から昭和32年まで大夕張で教員として過ごしていました。大夕張時代のことを多少書き残しています。(ふるさと大夕張にも掲載していたものもあります)その文章を『流れのように』というタイトルで、掲載していこうと思います。

 また、今後ひょっとしたら新たな高橋さんの文章が読めるかもしれません。こちらも楽しみにしながら、待っていたいです。

 最後に、高橋正朝さんのメールアドレスを紹介して終わります。現在『ふるさと大夕張(1丁目1番地)』の住民登録にあるものと、変更ありませんが、最度こちらに明示させていただくことにしました。

 

高橋正朝 (たかはし まさとも) tkhsmstm@hotmail.co.jp

 

備忘録

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