流れのように■鹿島小学校のむかし■|長谷川安造 #1

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 40年の昔、自然林に包まれ、朝夕、夕張岳に美しく映える麓の地に新しく、木のかおりの高い『主夕張尋常小学校』が誕生。児童の大部分が,南大夕張から転入した。

 当時の校庭には、大木の切り株がいくつかあり校舎裏は、深い笹やぶに囲まれていたという。

 開校10年後の昭和13年3月、私が赴任したころは教師の数、児童の数ともに開校の時の二十倍にも増加して、毎日のように、各学級に新入児童が父兄とともに見られたものである。

 大夕張礦業所発展のあらわれの一面か、将来は五十学級の大きな学校になるのだと礦業所も、学校も大構想をもっていたようだ。

 そのころの児童のふえ方は、余りにも激しく、教室が足りない、先生が足りない、で 二部授業(児童登校の一番方、二番方)が行なわれ、ひとりの先生が一部と二部、二学級を担任したこともある。

 遠足や学芸会など,学校行事には,目をまわすいそがしさであった。

 遠足は今とはちがい、体力、精神力をつちかう目的で、各学年に応じて、距離が定められ、春よりは秋は遠く、一学年進むにつれ、さらに遠方へと計画された。

 最終学年は、男女とも礦業所裏山の鹿島沢を経て、送電線附近の山道を超え、夕張に出て、さらに鹿の谷、清水沢、南部を歩き続け学校にもどる、実に強行軍であった。

 その他、年中行事として、7月下旬は夕張岳登山。

 高等科は学級ごと一泊して下山した。6年生の一部児童と、父兄同伴の 3、4年生で何人か登山したものもいた。

 銭函海岸で一週間の臨海学校を開き、カナヅチの児童も帰りには、浮かび、泳げるくらいまでになった。

 冬は、スキーでの夕張越え。

 その頃参加した卒業生で今なお、大夕張ですべり続けているものもいることでしょう。

 その後、戦争たけなわとなり、学校は生産教育に主力がそそがれた。

 今更ながら、社会の変遷が教育に如何に影響されるか痛感される。


(昭和43年10月1日『鹿島小開校四十周年記念誌』に「回顧随想」と題して掲載)


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