流れのように■青年の夜学 ~山奥の出張教育所~■|長谷川安造 #3
今から50余年前のこと(昭和19年頃)大夕張尋常高等小学校から更に15km位、(シューパロ)川の上流地点に、冬山造材所があり、そこで数十人の青年たちが働いていて、山奥の青年夜学出張教育所が開かれていた。
私は或る土曜日の夕刻、スキーで林鉄(※)沿いに、細い雪道を,造材事務所を目指し急いだ。
歩き出してから12km地点で、早や日は暮れて,自分の歩く音しか聞こえない静けさである。
その時、右手前方に突然、尾太茶色の大狐が現われ、きょとんと私を迎える様に、立っている。
驚いた私は、ストック振り上げると、大狐は素直にも、林間に隠れ入った。それから、私は一段とスキーの速度をはやめ、やがて事務所に辿り着いた。
戦前の当時は、勤労動員と称し、動ける者は皆、誰でも生産活動に精出ししたものだ。
そしてどんな僻地山奥にいても、学習の機会は得られた。
人里離れ15km山奥に働く青年のため、私ども4名の教職にある者交替で、道徳・国語・算数を週一度、出張授業に当たった。
出張の山行き土曜日は、早飯で午後4時頃家を出て、午後6時半迄に事務所につくことになっていて。
そして、2教科の授業を済ませ一泊し、翌日帰宅する様になっていた。
一日の労働に疲れ切る青年達。
面白くもない道徳と算数に耳を傾けてくれた。
彼の青年達の姿は、今も私の胸に尊く残っている。
そして眠気を吹っ飛ばす程の話術の無かった自分を恥じ、反省している。
(平成10年4月 記)
長谷川安造 (明治37年生~平成10年)
昭和13年4月大夕張に教員として大夕張尋常高等小学校(のちの鹿島小学校)に赴任。昭和32年4月鹿島小学校より富野小学校に転出。
※・・・林鉄(森林鉄道)は主夕張森林鉄道。昭和9年に着工され、12年に開通。シューパロ川上流に15.4km。
炭鉱開発とほぼ同時期に、主夕張森林鉄道は大夕張を基点に驚く程、山奥に伸びていったことがわかります。大夕張は炭鉱の町として栄えましたが、林業に働く人々は、採炭とはまた違った面で最前線で、日本を支えてきた人々の姿であり、そのあたりをかいま見ることができます。
もっとも私が物心ついた頃には,すでに木材の積み出しも森林鉄道からトラックに変わり始めた時期で、記憶の中では、木材を積み込んだ大型トラックの印象が強いものになっています。