流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし①-■|長谷川安造 #4

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 私は14年間の思い出多い、沼ノ沢を後に、昭和13年春、大夕張尋常高等小学校に転勤した。母、私たち夫婦と娘三人の六人で、青年団員や父兄、教え子に見送られ、大夕張の地に移住した。

 沼ノ沢の教え子たちと、青年団員は、新築炭住の私の引越し先まで来てくれ、手伝ってくれたものだ。嬉しい志に感謝。

 昭和13年6月には、長男が、弥生町にて誕生。我が家にも男気が加わり、一同大喜び。翌14年、宝町に新炭住完成に伴い、そこに引越しとなる。10月に、ここで、二男が誕生した。

 更に、昭和15年、この地に初めて、夕張町営教員住宅が、十戸新築され、我が家もまた引越しとなり、赴任以来、毎年引っ越したことになる。いずれも木の香り高い新築の住まいで、その点、恵まれた。

 世の中は、一日一日と大戦争に近づいている。

 この頃、私の家では、家族の栄養、物資不足補いの意味で、養鶏・養兎・山羊飼育などを試み、自給自足の方針の実施に入る。

 幸い家族も等しく協力して、それぞれ、飼料集めや、兎、鶏小屋の掃除をよく手伝ってくれた。

 7月末、夏休みに入ると、家族ともども、笹苅りから荒れ地開墾をし、秋大根の種まきまで、母に留守を頼み、夫婦子どもら皆で耕作に励む。

 秋に入り、収穫の大根運びは、これまた危険の伴う作業であった。歩く道なく高さ二十五メートルの鉄橋(注:農場は後の明石町付近で、道はなく五号の橋とよばれた旭沢鉄橋で結ばれた)を渡らねばならなかった。家族それぞれ背中いっぱいに大根を背負い、命がけの思いでわたったものだ。

 晩秋も、子供らと共に、山に入り、山羊の飼料とする枯れ葉集めを行う。枯れ葉は袋に詰めても詰めても、なかなかいっぱいにならず、日暮れまでかき集めた。

 鶏が毎日生んでくれる卵、毎朝夕、搾り出る山羊の乳、我が家ではどんなにか役立った。

 山羊の乳搾りは、私や妻が行っていたが、後には、長男が覚え、上手に手伝って、一人で行うようになった。

 昭和17年4月に我が家に三男が誕生した。19年2月には、四女が生まれ、二人とも山羊の乳で育った。

 昭和18年8月に、角田村に縁づいた弟に応召あり、出征。甥が昭和19年1月応召出征。親戚、近隣者、同職の仲間などが応召され、出征者は数え切れない程になった。

 私は、高等科担任のため、毎日の様に勤労作業指導であった。そして、家庭に帰ると、防空壕堀り作業だった。時に、川を10メートル余り上流に向かい、山の中深く入り、身の丈もある山蕗採りに汗を流したりもした。

 当時、どこの家でも、耐乏食で、大根の葉、山蕗、南瓜(かぼちゃ)、粉砕玉蜀黍(トウモロコシ)、屑甘藷(イモ)などが主食品で、米粒は茶碗の中に探すに容易ではない。

 10人家族の我が家、いよいよ食料欠乏してくると、岩見沢、栗山の親戚を訪ねリュックサックにもらってきた。知らぬ人が見れば、きっと当時の買い出し男に見えたことだろう。幸か不幸か、一度も警官に呼び止められたことはなかった。


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