交通信号機 |高橋正朝 #6

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 我々の子ども時代、大夕張には交通信号機がなかった。

 交通信号機自体は、絵本、マンガ、テレビ、映画などにでてくるから知ってはいるのだが、実物を見たのは、夕鉄バスに乗り、見学旅行で初めて札幌に行ったときだった。

 鹿島東小学校4年生のときだった。

 古谷製菓と北海道新聞社を見学した。古谷製菓では、オミヤゲに、キャラメルをいただいた。たしか1人につき2粒だったと思う。

   

 その次は、北海道新聞社で、部所名はしらないが、オジさんが、写真の人物を、ホワイトで縁取りして白抜きしていた。子どもだったから、言葉による表現はうまく出来なかったが、印刷した新聞の写真が読者にハッキリわかるようにするためだと、感覚的に理解した。

 このことは、他の生徒と特段話はしなかったが、たぶん同じ感想を持ったろう。その後、新聞の写真を見ると、ホワイトによる白抜きの縁取りを注意深く眺めるようになった。

 同じビル内で、地下に行った記憶がないので、たぶん1階だったと思うが、発電機の試運転を見せられた。輪転機で、新聞を印刷するところは見学したかどうかは覚えがない。見たような気がするが、これは、テレビドラマや映画で、事件を報道する活字が映されることがあり、その背景に輪転機で印刷される新聞が映されるが、その場面が記憶にインプットされ、見学では実際に見ていなかったのに、老人になった私の脳では、恰も、見た、という、エセ体験になっているのかもしれない。

 古谷製菓の見学のときは、交通信号機のことはまったく覚えがないので、バスは、工場敷地内に駐車したと思う。

 北海道新聞社に行ったときは、大通りに交通信号機があって横断歩道を渡った。記憶は定かでないが、夕鉄バスは、そのとき、札幌市役所前に駐車したような気がする。新聞社に行くとき、少し歩くのだが、左手にテレビ塔を見ながら右手に向かって大通りに沿って歩いた。もしかすると、テレビ塔のそばで降車したのかもしれない。このあたりの記憶はハッキリしない。

 横断歩道を渡るときは、先生と付き添いの父兄の指導のまま行動した。だから、交通信号機そのものを見たことは記憶の片すみにあるのだが、信号機に対しての行動のルールは知らない、というか、ちっとも関心がなかったから、どういうふうに歩行するのか、先生任せだった。自動車に対する注意はゼロだった。大夕張で生まれ育った子どもとしては、至極当然だ。

 大通りで、大勢の小学生が横断歩道を渡っているのだから、車もそれなりに注意を払ってはいたろう。また、その時期に、道内の田舎から北海道新聞社に児童が大勢見学にくることは、新聞社は当然のことながら、警察も十分承知し、その近辺を日常的に通行している人たちや、車の運転手には見慣れた光景だったろう。今はどうか知らないが、北海道新聞社では、見学した団体を、紙上で報知していた。

 当時のことだから、車両も歩行者も、同じ信号機で行動していたろうと思われる。その上、交通規則の不備も相俟って、青色信号に変わった途端、発車した自動車がすぐ左折したり右折したりして、青色信号で飛び出した子どもが、その自動車に轢かれる事故が度々あったようである。

 1回の青信号で全生徒250人は歩道を横断できず、先生たちの指導で、少なくても、5回ぐらいに分けて道路横断したろうと思う。いくら自分たちが注意していても、事故に巻き込まれることもあるから、先生や父兄の苦労も大変だ。今になって思うことだが••••••。このときの見学旅行では、事故は何もなかった。

 交通信号機の赤黃青の意味も、ほとんどの生徒はすでに知っている。しかし、私と、私に類似した生徒は、赤黃青の信号システムの真の意味は知らなかった。だが、大夕張に住んでいる身としては、日常生活には、何の支障もない。

 東小学校では同級生になったことはことはなかったが、4〜6年生のときの松組に、ゴリこと、菊地正男 さんがいた。彼は、前々回書き込んだ東小学校そばの火事が発生した地域のすぐそばに住んでいた。ソフトボールでは、必ずキャッチャーをやっていた。 彼は、鹿島中学校では野球部に入り、やはりキャッチャーになった。両手をあげて、守備についている人たちに声をかけていたのを、何回も見かけた。 

 中学校1年生では、F 組となり、私と同級になった。彼は明朗快活で、誰からも好かれる男で、当時は出版されてなかったが、「 週刊少年ジャンプ 」に連載されていた、「ちばあきお 」の野球マンガ「 プレイボール 」の「 田所キャプテン 」に似た風貌だ。

 雪が積もってた時期だったから、たしか、1月か2月の頃だったように思う。席が隣り合わせになったことがある。中庭が見える窓側の最後部の席だった。休み時間、彼が、紙に十字路を描き、次いで信号機を描いた。

 信号機が青になって、車が6時の方角から12時の方角に進むとき、9時の方角から3時の方角への道路の信号機の色は ? という質問だった。

 私の答えは X だった。 

 当時の大夕張には交通信号機はなかったのだから仕方がないとはいえ、彼の懇切丁寧な説明も、理解できなかった。

 ホント、鈍かったよなぁ••••••。   

 しかし、今になって思うのだが、菊地正男 さんが、図を描いて質問してくるくらいだから、私のような鈍い生徒が、結構いたのではなかろうか••••••。

 あなたはどうでしたか ?

(2020年10月5日 記)


(筆者略歴)

昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。


1件のコメント

  • 昭和46年頃、札幌に出てきてバス通学を始めた時、バス停から渡る北一条通り(旧国道5号線)は、まだ信号機もなく、片側2車線の道路を渡るのに難渋しました。
    自動車のやってくるスピードと、渡りきるまでの感覚がまったくつかめなかったのです。
    中学校卒業くらいだったと思いますが、大夕張と札幌の道路感覚はまったく別物でした。
    まあ、田舎と都会といってしまえばそれまですが、当時大夕張を田舎とは思っていなかった。

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