教室の掃除当番|高橋正朝 #7

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 義務教育の公立学校で、教室を生徒が掃除するというのは、日本は世界のなかでは例外のようである。

 日本国内でも、私立小学校や私立中学校はどうなのかは知らない。

 夕張市立の小中学校の1クラスの生徒は、我々は団塊世代だったので、どこの学校も50人ぐらいだったろう。低学年を除き、掃除当番はグループ分けされ、1グループ10人ぐらだった。

 クラスによって掃除当番をきめるルールは違っていただろうが、大体は似通っていただろう。

 私が在席していたクラスの掃除当番は、日替わりだったか週ごとだったかは覚えていない。授業中の机の配置が縦列だと、掃除当番は列ごとにグループになった。

 机の配置を突き合わせた形のグループ学習だと、そのシマごとに掃除当番になったのが普通だった。

 昭和30年代当時、鹿島東小学校では、出張当番なるものがあった。5年生と6年生が、1年生と2年生の教室を掃除するのだ。3年生と4年生は出張当番はなく、自分たちの教室だけを掃除した。

 このような習慣というか、制度は、鹿島小学校も同じだったろうと思う。

 3年生のとき、何回かバツ当番させられたことがあった。本来の当番のグループに、私を含めた3〜4人の男児が、掃除するよう先生に命じられたのだ。理由は覚えていない。マ、悪いことをしたのだろう。どんな悪いことだったかは、今となっては全然見当がつかない。いずれも初夏のころだ。

 私の学年は、女子生徒のほうが優秀だった。それでバツ当番をしている私達を、女子生徒3〜4人がからかうのだ。

 その女の子たちのなかに、ヤスコ というオカッパ頭の子がいた。特に大きいということはなく、普通の背格好だった。苗字は覚えていない。色白で、赤いほっぺた、というか、キレイなピンクだった。その子は、当時、明石町に住んでいた。集会所より、少しシューパロ川に寄った場所だった。その場所からシューパロ川が見えていたかもしれない。学校の何かの連絡か宿題のことで、彼女の家に数回行ったことがあった。

 彼女たちが、意地悪だった、ということではなかった。投げつけられた言葉は忘れてしまったが、単に、軽いノリのからかいだったと思う。

 いずれにしても、バツ当番をしている我々としてははなはだ癪だったので、女の子たちをホウキを振り上げて追いかけると、キャーと叫びながら廊下を走って逃げるのだ。

 このようなことは、男児だったアナタもやってだでしょう。

 覚えていませんか ?

 マ、鬼ごっこの遊びの変形ですネ。当時の男児というのは、こんなもんでした。自己弁護するわけじゃないけどネ••••••。

 私は鈍足なのに、こういうときは、いつの間にか先頭にたっている。こういうところにも、私の迂闊で図に乗りやすいアホな性格がでている。

 ホウキを振り上げて女の子を追いかけ始めた場所には、先生はいなかったが、女の子たちが、「 センセー 」と叫びながら走って逃げた。これ、案外、おもしろいんだよネ••••••。

 廊下を曲がったので、そのまま追いかけたら、その先に担任だった女の先生がいて、こちらを振り向いた。

 ハッとなって、慌てて戻ろうとしたところ、襟首を捕まえられて、頭を軽くコツンとなぐられた。だから、痛いことはなかったのだが••••••。

 このような同じパターンが、後に2回もあった。まるで、お笑いテレビ番組の、お決まりの場面みたいだ。

 自分のことながら、こういうとき、なぜ鈍足の私が、いつの間に先頭になるのか、今でも不思議に思う。

(2020年10月6日 記)


(筆者略歴)

昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。


1件のコメント

  • さて、自分は、とふり返ってみると、こんな時、何が起こったかわからずボーっと見ているか、はたまた「先生●●ちゃんと、○○くんがけんかしている」と、告げ口に走ったか、いずれにしても第3者的立場でいることが多かったような・・・苦笑。

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