赴任の思い出と岳楓寮の食生活|山中佐喜男
昭和46年から48年の3年間、私は新卒教諭として鹿島東小に赴任しました。空知教育局に呼び出され、夕張登川小に行くように言われ、すぐバスに乗り本町にある教育委員会に行きました。
すると教育長との面接で「君は鹿島東に行ってもらうよ」との一声で、大夕張との運命的な出会いとなったのです。
当時、登川が夕張のどこにあるか、大夕張がどんなところか、まったく予備知識はありませんでした。
若菜から乗り換えて大夕張行きの夕鉄バスに・・・・・。清水沢を通り過ぎるとだんだん車窓から見える景色はさびしくなります。
右手にシュ-パロダムが見えるころにはその不安は極致に達したことを、今でも思い出します。
こんなところに学校なんかあるのだろうか、人は住んでいるのだろうか・・・・・。
いまから26年前の雪解けの3月末のできごとでした!
大夕張での3年間を岳楓寮で過ごしました。岳楓寮は、教員および市職員の独身寮でした。建物はそれなりに老朽化していましたが、当時としてはめずらしくトイレが水洗化されていました。
木原さんという管理人がおられ、ご夫婦で私達寮生の食事の支度もされていました。
月1万円程度の食費のなかから、いろいろ苦労されていたようでした。
春の竹の子、ふき、わらび、そして秋の落葉きのこと、おそらく近くの山で採られた山菜も、食堂のテ-ブルによく上っていました。
入寮当初、「今日はラ-メンだ」との声に、勇んで食堂にでかけたのですが、テ-ブルの上には、なんとマルちゃんのみそラ-メンが湯気を立てていたのを思い出されます。
日曜日は、昼の食事がなく、各自外食しなければなりませんでした。夕食は、なぜかきまってカレ-でした。
中学校や東高の先生方は給食がありませんから、弁当を作ってもらっていました。私達小学校に勤務する者も遠足などには、「おにぎりたのみます」と前日に頼むと、「おにぎり」を作ってくれました。
今の時代からみると、とても質素な食生活だったと思います。
しかし、4月の歓迎会、3月の送別会だけは、特別メニュ-でした。
食堂のテ-ブルをとりはらってござをひき、「すきやきなべ」と、木原さん夫妻お手製の茶碗蒸が、「出会い」と「別れ」の宴を彩りました。
大体、夕食は5時から7時まで。
この2時間の間に食べなければなりません。それを過ぎると自分で味噌汁などをガスで温め、食器も自分で洗わなければなりませんでした。
(2000年 2月14日 記)
岳楓寮いったなあ。『中学校前』行きバスに乗って『朝日荘前』まで、天気の良いときは富士見町から本通りを通って歩いて・・・。
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昭和45年、鹿島中学校3年の頃、斉藤宏先生の部屋。2階の端の部屋だったかな。
学級もいろいろとあったけど、先生も若くて一生懸命だった。
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でも、先生の部屋での話題は、『網走番外地』と、『タイガーマスク』のはなしが、先生の意外な一面を見たようで一番楽して他の話は覚えていません。
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先生、ごめんなさい😂
丁度、東小に在学していましたので、山中先生の事は覚えています😊
岳楓寮には5、6年の担任の先生がいらしたので時々遊びに行っていました。
懐かしいです。