むろ( 室 )|高橋正朝 #25

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 我々の年代が、大夕張に住んでいた少年時代は、厳寒期になると野菜が不足した。

 ちょうど、今ごろの時期てすネ。 しかし、栄養失調の話は聞いたことはなかった。

 実際は、栄養失調に陥った人はいたかもしれないが、子どもだったがため、単に、社会のできごとを知らずに過ごしたのかもしれないが ••••••。

  

 当時、サプリメントという言葉は使われていなかったが、栄養剤とか、栄養補助食品という言葉はあった。

 ビタミンという言葉は、鹿島東小学校2年生のときに知ったように思う。 しかし、ビタミン剤というものは、まだ一般的には売られていなかった。

 

 ビタミン剤は一般的に売られていなかったが、肝油ドロップがあった。 この肝油ドロップは、鹿島東小学校3年生のときに、クラスで先生から各自に配られた記憶がある。

 1年生のときと、2年生のときもあったのかどうかは記憶にない。 4年生からは、肝油ドロップを食べた記憶はまったくない。 しかし、今でも売られているらしいから、すぐれた栄養剤なのだろう。

 

 冬期に、大夕張で売られていた野菜の種類は少なかった。

 長ネギ、玉ネギ、ジャガイモ、サツマイモ、カボチャ、ニンジン、ゴボウはあった。 ハクサイは、初冬にはあったが、厳寒期には売られていなかったように思う。

 キュウリ、ナスビ、トマト、キャベツなどはまったく見なかった。 温室栽培が、まだ一般的でない時代だから、当然といえば、当然といえた。

 

 ただ、マレではあるが、冬であっても、ホウレン草が売られていることがあった。 葉野菜の代表的なものだが、白金地区に農家があったとはいえ、雪の降る、当時の大夕張の冬の寒さのなかで栽培される作物ではない。

 

 当時の石炭産業は、日本の重要産業のうえ、三菱大夕張では、鉄鋼生産に必要なコークスも作っていたから、流通経路はわからないが、当時としては、できる限りの食料の優先的な移送があったものと推察される。

    

 果物は、ミカン、リンゴ、柿、落花生、加工したものになるが、干し柿が売られていた。

 果物ではないけど、干し芋もおやつとしてよく食べていた。

 

 生鮮野菜の種類は少なく、結局、保存食品、大部分は、秋口に収穫した大根の漬物、それと、ハクサイの漬物に頼るしかなかった。

 家によっては、フキの漬物を用意するところもあった。

 フキの漬物を用意する世帯は、全体としては少なかったようだ。 アク抜きのため、一度、煮なければならなかったので、手間がかかるからだろう。

 

 ダイコンやハクサイの漬物は、ご飯のオカズ以外、お茶請けとしても重宝された。

 

 茶道としてのお茶請けは、和菓子が一般的だが、東京での普通の家庭では、センベイが一般的である。 大夕張では普通に食べていた南部センベイではなく、醤油を塗ったセンベイである。

 奈良漬けや浅漬けがでてくることもあるが、東京では例外に属する。 これも例外的であるが、自家製の梅ぼしがでてくることもある。   

   

 大夕張時代の冬期の食料の話に戻す。

 家庭には、冷蔵庫などなかった時代である。 テレビの購入が各家庭の最優先だった時代だ。 冬場は、各家庭のお母さんたちは、副食物の保存には頭を悩ましていただろう。

 

 明石町番外地に住んでいた我が家の玄関の下にはムロ( 室 )があった。 私が5歳のとき、そのムロに土砂を入れて潰してしまった。

 中に入ったことはなかったが、広さは4畳半ぐらいで、深さは、父親の背丈より更にあったから、2メートルより深かったろうと思う。

 

 そのムロには、冬場用の食料を保存していた。 父親が電球を点け、何やら動き回っているのを、上から覗き込んでいたのを覚えている。

   

 保存していたものは、ダイコンの漬物、ハクサイの漬物、干したハクサイ、干したダイコンの葉である。

   

 その他に、カズノコを樽詰めにしたもの、イカの慣れずしがあった。

 当時は、イワシが大量に捕れた時代だったようだから、カズノコは、たぶん、大夕張で購入したものを保存したのだろう。 

 イカの慣れずしは、母親の実家が、函館の郊外、汐首戸井村で漁師だったので、そこから、他の海産物とともに、チッキで、明石町番外地の我が家に送られてきたものだった。

   

 カズノコは、ドンブリにいれて醤油をかけ、バリバリと音を立てて食べていたが、幼稚園児になってから、その記憶はパタッとなくなった。 軌を一にして、イカの慣れずしを食することもなくなった。

   

 ムロを潰した理由は、地震対策だったろうと思う。 ムロの土壁は、板を当てていたかどうかも怪しい。

 ムロがなくなってからは、10月下旬、家の前の小さな畑に穴を掘っておき、雪が降るころに、ジャガイモ、ニンジンを活けこんでいた。

 野菜を活けこんで土をかぶせるのに、わざわざ雪が降るころまで待っていたのは、野良犬対策だった。

 家は2階だてだったので、カボチャは2階に置いていた。 家ではネコを飼っていたので、カボチャがネズミの被害を受けることはなかった。

     

 三菱大夕張で働いていた人の社宅では、ムロなどは当然ない。 それで、明石町の社宅の後ろのスペースは、小さな畑にしていたのが普通だったから、鹿島東小学校の何人かの級友たちの家では、ジャガイモなどを、上記のように、その畑の土の中に保存していたようだった。

 ジャガイモは、食べる以外、翌年の春にはタネイモとしても必要だったからネ。

  

 琵琶湖の鮒の慣れずしは有名だが、イカの慣れずしはあまり知られていない。 私が食べたのは5歳までで、その後は一度もない。

 酸味が強く、独特な匂いがある。

 興味がある人は、ネットに紹介記事がいくつかあるので、それを見てください。

(2021年2月6日 記)


(筆者略歴)

 昭和23年11月大夕張、明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。

 以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。


   

1件のコメント

  • 「むろ」は、炭砿病院の薬局や、自分が大夕張でくらした三軒の住宅のいずれかでもあった。
    床の蓋を開けて梯子がついていて、いつも薄暗く、ひんやりしていた。
    病院の薬局のムロは、深く、梯子を下りていった、中で作業をするスパースはあるような広さだった。もちろん中は、薬の保管庫のようなものだったと思う。父親の作業を上からのぞいていたような覚えがある。
    家の「むろ」は台所の床下にあったような気がする。
    いたずらをして怒られた時には、「むろ」に閉じ込めるぞ、と脅かされたこともあったような気もする。
    実際に入れられたことはないけど。
    大夕張から、札幌に出てきて、「あれ?}と思ったことは、札幌でみた「むろ」は、ひと一人が立って入ることができたような広さのものではなく、板を取ると、単なる「物入れ」のような棚があらわれたことだった。

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