雪崩れ|高橋正朝 #27

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 2月から3月にかけて、明石町番外地の我が家の窓から、山に雪煙が舞い上がるのを見ることがあった。

 そう、雪崩れです。

 そういうときは雪は降っておらず、空には、雲はそれほど広がってはいなかった。どちらかというと、雲の広がりよりも、青空のほうがまさっていた。

 だからこそ、雪煙がたやすく見えたのだろう。

  

 大夕張での雪崩れは、12月から1月にかけてはなかったような記憶だ。

 私が知らなかっただけで、実際はあったのかもしれないが、あったとしても、その時期としては、例外的なものと思う。

  

 我が家から見えた山々に、名前があったかどうかは知らない。沢が1つ見えるのだが、その沢に名称があったかどうかも知らない。

 飯田さんが編纂した、〘 項目•••地図 〙に、〘 沢の名称 〙の項があり、それに、〘 明石沢 〙という名称がみえる。もしかすると、それが、我が家から見えていた沢の名称だったかもしれない。大夕張で生まれて育ったが、この地図を見るまで、主だった沢に名前がついていたなんて、全然知らなかった。

 

 子どもだったから、知らなかったのはやむを得ない。考えてみれぱ、橋を架ける計画の段階で、場所を特定するのに、地名がなかったなら不都合なので、それならば、ということで、名前を付けたのだろう。蝦夷地に、最初から和名が付いているわけがない。

   

 〘 沢の名称 〙に、明石町と千年町の間に、〘 朝日沢 〙の名が見える。鉄橋の〘 旭橋 〙と〘 明石橋 〙が架かっていた沢のようである。この鉄橋が架かっていた沢は、〘 旭沢 〙だが、オンが同じ、若しくは似通っていて、別な漢字表記になっていることは、歴史上ママあることだ。古代日本の地名は、そのオンパレードだもんなぁ。

 

 明石町駅のホームに立って清水沢方面を眺めると、鉄橋が見えていた。その鉄橋にも名前が付いていただろう。そして、その下の沢の名称が、〘 明石沢 〙だった可能性が大だ。ハッキリ言わないのは、近くには、別な沢があったからだ。そのことについては、別な稿で書きます。

 

 我が家から見えていたその鉄橋のすぐそばの土手のそばに、記内さん、遠藤さん、小西さん、たち3家族が住んでいた長屋があった。

 その横を通って土手をのぼり、線路を渡って山道を行くと、平地ではないが若干たいらな場所になる。 そして、その付近は狭いが畑になっていた。   

 その辺りの左手と正面の山は、私の幼児時代には、結構、木が立っていた。大木ではないが、30センチから50センチぐらいの太さはあった。それらの木に絡まっているツル草、山ブドウのツル、背の高い雑草が生い茂り、幼児がそこに下手に入り込むとなかなか出てこれない。

  

 鹿島東小学校2年生のころ、そこの2つの山の木を営林署が伐採し、切り株や雑草などは燃やしてしまった。

 それで、その場所は、子どもたちには、冬にのスキー遊びには絶好になった。ただし、明石町の子どもたちが、大勢でここでスキーをすることは、ほとんどなかった。そこに行くのが面倒だったのだろう。

 明石町番外地に住んでいた私でも、わざわざ行くのには面倒な場所だった。スキーを履いたままではそこには行けない。スキーを担いで雪を漕いで行くには難儀する。しかし、マ、勉強もせず、マンガしか読まない少年はヒマなもんだから、時には、そこに出向いた。

 そのうち、そこでスキーで滑るだけではなく、3年生になってからだったが、別な遊びをするようになった。

 雪崩れを起こすことだった。

 雪の降る山間地に住んでいる者は、雪崩れの発生メカニズムは誰でも知っている。幼児はともかく、実感はなくても、10歳くらいになれば子どもでも知っているだろう。

  

 ある冬の日曜日、1人でそこの山に行った。

 雪の斜面を、汗をかきながら階段登行して50メートルぐらい登ったとき、突然、上部の雪がくずれ、小さな雪崩れとなって私の身体をさらって30メートルぐらい下まで押し流した。

 雪の量は少なくて柔らかだったので、別段どうってことはなかった。

 雪は、2日前から断続的に降り、その日は朝から快晴だった。久しぶりの快晴で、風もあまり強くなかった。

 そういうわけで、その山に行ったのだ。

 偶然に出遭った雪崩れであったが、その斜面の勾配は緩やかだし、それほど高くはない。危険性は感じられない。雪崩れに巻き込まれる感触が気に入り、鹿島東小学校を卒業するまで、30回ぐらいはそんな遊びをしていた。   

 今でもそうだが、子どもの時分から1人で行動するのが好きで、この雪崩れ遊びも1人でやっていた。

   

 我々団塊世代の子どものスキーは、カンダハンという止め金具だった。そして、スキーの長さは、背伸びをして手を上げ、その手先までの長さが良し、とされていた時代だった。しかし、私が育ち盛りだからといって、父親は、それよりも長いスキーを私に買い与えた。故に、運動神経の鈍さもあって、それを十分に使いこなせなかったが、何とか滑っていた。

   

 あるとき、結構大きな雪崩れになり、スキーの後部が積雪に突き刺さり、私の上半身は斜面の下方になり、その身体に、雪崩れの雪が覆いかぶさってしまった。そのときは、スキー靴を外すため、カンダハンの金具を引き起こそうとしたのだが、身体ごと雪に埋まっているため、苦労した。骨折しても不思議ではなかった。ほんと、アホだったよなぁ。だからと言って、その遊びはやめなかったが ••••••。

 雪崩れの起こし方は、これを読んでいる大多数の人たちはご存知だと思う。 私の場合は、以下のようにやった。

   

 そのときの気分によるが、新雪を30〜50メートルぐらい階段登行し、スキー板で踏んだ雪は凸凹させないようにする。スキーの長さ1枚分の幅ができると、低部に戻り、また新雪を階段登行する。これで、スキーの長さ2枚分の幅の踏んだ雪面ができたわけだ。気温は0℃以下だけど、身体に直接接している肌着は、汗ビッショリ。 時折り、身体が痒くなる。これは、シモヤケのせいではなく、フロ嫌いだったタメです。

     

 次に、踏んだ雪の端から新雪に入り、そこから2メートルぐらい上部に行き、眼下に踏んだ雪を見ながらスキーを斜面に真横にしたまま、身体を心持ち山側に倒し、そのスキーに体重をかける。 そして、真横になっているスキーに接触している雪を押し下げる態勢をとる。そうすると、スキーの2メートル下方の雪塊だけでなく、ついでに上部の雪をも引っ張ることになって雪崩れ、と相成る。

   

 危険な遊びなので、マネはしないように !!! と分別くさく言うのは、今だから言う言葉です。

 

 『 旭沢橋梁の思い出 』として、真田裕一 さんという方が、旭橋を走る列車の入口の手すりにぶら下がる小学生の話を書き込んでいましたが、大勢ではないものの、結構、こういう危険な遊びをする少年たちはいたんですよネ。 それを見たからといって、いちいち、先生に言いつける、て言うか、報告する者は当時はいなかったし ••••••。

   

 こういう危険な遊びは、少女は絶対にしなかった、と思う。 

(2021年2月20日 記)


(筆者略歴)

昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。


 

1件のコメント

  • 子どもながらの考えで、表層の雪を滑らせ雪崩を起こしてみようと試みた記憶はあるけど、うまくは行かなかった。
    なるほどそうだったのかと合点が。
    思っていたより広範囲を崩さないとダメだったのか。
    自分の遊び場所を考えてみると、スキー場は、雪がならされているからそういうことはできない。
    富士見町の裏山でスキー遊びをしたことは、けっこう多かったな。
    でも期も何も生えていない斜面はあまりなく狭かったような気がする。
    沢というか、段差のある崖でせいぜい雪を上からくずして一緒にすべり落ちるといった感じだったかもしれない。

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