三菱礦業所大夕張幼稚園から聖心第二幼稚園
礦業所経営の幼稚園から、大夕張カトリック教会経営の幼稚園、閉山後は保育園という変遷をたどる。
【沿革】
昭和9年4月1日設立。
園長山崎徳也氏。学級12,職員9名。園児は男子265名。女子300名、合計565名。
当時の大夕張礦業所長の西原民平氏が、昭和8年開設して、自ら園長に就任。
設立時は、炭砿病院横にあったという。その後、年々隆盛をきわめた。
昭和21年1月6日、栄町3丁目18番に園舎175坪を建設した。職員は専任兼任合わせて16名だったという。
昭和和30年代、三菱大夕張幼稚園が栄町3丁目18番から、健保会館横に移転。
昭和39年、砿業所から引き続き、大夕張カトリック教会経営の第二聖心幼稚園になった。
昭和48年、炭鉱の閉山で幼稚園が教会とともに閉鎖された。
尚、その後自主運営の無認可保育所として運営された。住民退去時は、大夕張保育園となり、場所もかつての児童会館の施設に移転していた。
2部制での登校 【飯田 雅人】 (2006年2月25日)
昭和35年頃、通いましたが、当時は、人数も多く交代で、一日おきに通いました。
白いハンカチに名前を書いてもらい、紙で作ったピンクの桜の花びらを留めて(さくらぐみだったのかな?)角帽と深緑色の園児服を着て、青い鞄をかけて通った記憶があります。
結構広い体育館もあり、走り回って遊んでいました。
写真の右手の園庭は、健保会館の庭につながり、花壇を囲んで写生などをしていた。
昭和38年卒園 【宮上 勝幸】 ( 2007/01/12(Fri) 13:17)
私も昭和38年に幼稚園を卒園しました。
やはり一日おきに幼稚園に通いました。
クリスマスに一人ずつ配られたケーキがとても印象に残っています。サンタクロースは女の人だったと思います。
官行から歩いてましたので今なら結構な距離だったと思います。
クリスマスケーキ 【泊川俊徳】(2006/09/15(Fri) 10:04)
幼稚園の「クリスマスケーキ」。
昭和33年頃、自分もここの幼稚園を卒園しました。
当時、都会から来た人は、クリスマスという意識も強かったかも知れませんが、自分にとってクリスマスは、馴染みの薄い感じでした。
売店に、やっと子供向けに、飾りつけの長靴に入ったお菓子セットが、出始めた時代だったかも??
何せ、大夕張では馬車、馬ソリが活躍してた頃ですから、クリスマス何てね。
幼稚園で、クリスマスに一口サイズの丸いクリスマスケーキが、一人一個プレゼントされ、家に持ち帰りったことがありました。
ケーキには、ローソク。クリスマスの飾りが、小さく飾られていました。
当時、自分は余り甘いお菓子は食べませんでしたが、何故かしばらく飾っていたような気がします。
今では珍しくも無い、『クリスマスケーキ』ですが、子供ながら贅沢な気分だったかもしれません。
本間せつこ先生 【元園児】(2006/08/24(Thu) 10:49)
私の当時の先生の名は本間せつこ先生で、眼鏡をかけて髪が長く背の高い先生と記憶してます。
給食は、とらやのパンでした。
31年卒です。幼稚園で覚えた歌
歌えます
♪お滑り台もブランコも
お庭のお花もさようなら
私はもうじき1年生
さよならさよなら幼稚園♪
私も昭和34年にこの幼稚園通っていました。1日おきの通園で AとBに分かれていて 緑町の私がAだとすると明石町の友達がBでした友達が近所に引っ越ししてきて 幼稚園の話になり 先生の名前を聞かれたので 戸田先生と答えたら その友達も 先生は戸田先生と答えました。で お互い嘘つけ お前なんかいなかった と幼稚園の卒業アルバムを見せ合いました すると確かに 両方のアルバムに戸田先生が それで1日おきの意味がわかった様な気がします 園長はメガネをかけた千葉先生でした。 クリスマスのケーキですが10×10cmぐらいの丸いケーキでした 私は初めて食べるケーキでした。食べ終わったケーキの箱を 貯金箱にして ずーと持っていた記憶があります それと 絵が外れるパズルが得意でした。
右端の先生、お顔に見覚えがあります。この河原は、春日町の河原ですね。制服というか、かわいい上っ張りを着て、遠足にいったのですね。ハンカチの名札。そして三角帽子も懐かしいですね。